
Vol.5 FUJITA Mitsuhiro
藤田 光弘 氏
有限会社 昌藤 代表取締役
刺繍・プリントの総合プロデューサー
それが必要なら、機械だって自分でつくる。
ずっと、不器用な人間だと思われてきた。手先の器用さのことではない。生き方のことである。
もっとうまく立ち回れば、ずっとらくに生きられるじゃないか。どれだけの人から、幾たび、そう詰め寄られたことだろう。
わかっている。たぶん、そのほうがすべてうまくいくのだろう。しかし、それができなかった。
たとえ仕事をもらう相手であっても、根本の考え方が違うのに頭は下げられない。媚びることができない。
そのくせ、一つの仕事を一生懸命にやりすぎる。だから人生の大半は、貧乏と友だちのまま過ぎてきた。
汗まみれ、油まみれになって働いていた少年時代。
祖父が修行のために上京したのがきっかけで、家は東京の日本橋で紳士服のテーラーを営み、それなりに成功していた。父は長男として生まれ、苦労知らずのままに育った。
が、平穏な日々は続かない。祖母の急逝を境に祖父が生きる力を失い、さまざまな不幸も重なって、ついに父は祖母の妹を頼って群馬県の桐生に移り住むことになった。親戚に身を寄せる気の休まらない生活は容易に想像できたはずだが、父にはそうするしかなかったのだろう。やがてそこで結婚をし、藤田光弘さんが生まれた。
昭和22年9月の半ばだった。
藤田さんがはまだ、1才の誕生日も迎えていない。そのとき、関東や東北に甚大な被害をもたらしたキャサリーン台風が上陸した。
赤城山麗の土石流が民家を襲い、河川は決壊し、道路が濁流と化した。群馬県だけで592人の死者を出した大災害だったが、そのとき藤田さんの小さな身体も、3~4kmほども下流に流されていた。
流木の下で、赤ん坊は激しく泣いた。
「ここに子どもがいるぞー」
誰かが叫び、うちの子かもしれないと思って探し出してくれた見ず知らずの人に助けられた。
せっかく助けられた命であったが、その先の人生はたいへんだった。
祖母の妹の家は、桐生で自動車の整備工場をしていた。
ぼんぼん育ちの父はやむなく整備工になったものの、身体が丈夫でなかったし、親戚であっても余分に給料をもらえるわけではないから、収入が追いつかなかった。どんどん生活がひっ迫していくが、それでも父の動きは鈍かった。
母だけが、一身に苦労を背負っていた。
そんな母を助けたくて、藤田さんは小さいころから働くことを覚えた。小学生の時にはもう、新聞配達をしていた。
中学を卒業すると、こんどは自分が整備工場を手伝うことになった。夜は定時制高校に通ったが、学校のない日は当然のことのように、夜遅くまで働かざるを得なかった。雑用が多かった。
つらい日々だったが、原動機など動力系のさまざまな原理が自然と頭に入ってきた。気がつくと、油まみれになりながら機械をいじることが好きになっていた。
不思議なことに、ここでの機械との格闘が、のちに思わぬ形で花開くことになる。


思いがけず、母と二人だけの 「藤田刺繍」 を開業。
18才になってやっと運転免許を手にし、雑用に追われる日々から多少は前にも出られるようになった。自覚が芽生えていった。
そうした矢先に、暮らしのための決断を迫られ、おなじ年の9月に、思いきって転職をした。それが刺繍屋だった。
一番は、給料のよさに惹かれたことだった。
その刺繍屋は親方が米軍と通じていて、そこから仕事を請け負って工賃収入で稼いでいた。藤田さんはまったくの素人だったが、そこでミシンと向き合うことになった。
今では使える職人が少なくなっている、文字どおり針が横に動く横振りミシンで、型紙に合わせて婚礼用の着物などに刺繍を施していく。
刺繍は布に一本の糸を刺すという単純な作業から生まれたものだが、その素朴なモノづくりは、さまざまに千差万別の表情を作り出してくれる。おもしろい仕事だった。
ところが、周囲の反応は予想以上に冷たかった。
「なんで整備工を辞めて、刺繍なんかやるんだ」
当時の桐生には、刺繍など男の仕事ではない、とする風潮が根強くあった。彼らは容赦がなかった。言われるたびにみじめな想いに襲われ、その言葉が長く胸奥に突き刺さったままになった。
2年が経った。
あるとき突然に親方が亡くなり、残された奥さんから、もううちでは雇えないと告げられた。そして意外なことに、「独立して、うちの仕事を請けてくれないか」と頼まれた。未熟ながらも、職人として多少は見どころがあると思ったのだろうか。
独立といっても、手伝ってくれるのは母しかいなかった。
こうして2人だけの「藤田刺繍」が出発した。けば取りや糸巻きなどの下準備はすべて母がやってくれた。母は結局、60才になるまで手伝ってくれた。ありがたかった。
が、なにしろ手間賃が安い。2~3万円で買える中古のミシンすら買えず、しばらくは知人から借りたもので間に合わせるしかなかった。しかもそれは、8mmしか横振りしないミシンだった。貧乏生活は変わらなかったが、一生懸命だった。5~6年たって、やっと中古のミシンを買えた。


藤田さんが集めた貴重なミシン
どうしてもなじめなかった桐生の旦那衆の世界。
桐生には、機(はた)屋と縫製屋が多かった。
話は遥かにさかのぼるが、享保15年(1730)に絹織物の最高峰とされた京都の西陣で、俗に「西陣焼け」と言われる大火があった。108町もの広範囲で町が焼き尽くされ、7000台あったとされる機の半分を焼失した。
機がなければ、それだけの職人が仕事を失うことになる。あぶれた技術者たちを手厚く迎え入れたのが、上州は桐生の機屋だった。
もともと西陣には一人で織る地機(じばた)とは別に、二人がかりで織る舶来品を改良した空引機(そらびきばた)があり、門外不出とされた。が、西陣の職人が来たことで似たようなものが桐生でも作られるようになり、一気に絹織物が栄えていく。
こうしてわずか数十年で、桐生は西陣を脅かすほどに成長していった。
その頃からの長い隆盛が、だんだんと桐生を変えていったのだろう。
機屋や縫製屋の旦那衆たちは、実際には自分では縫っていない人が多い。全体を取りまとめることが仕事で、自ら手を動かそうとはしなかった。呑む、打つ、買う、が当たり前で、京都から問屋がやって来ると、すぐにもどんちゃん騒ぎが始まる。あたかもそれが仕事のようだった。
どうにも、そうした生き方がなじめなかった。
藤田さんは27才のときに結婚をした。
お相手は桐生生まれの鉄工所の娘さんで、5人姉弟の長女だった。働くことが好きな明るい性格の女性で、両親からも可愛がられていた。黙々とがんばるところに、共通するものがあった。
やがて、長女、長男が生まれ、お金がかかるようになる。ちょうどオイルショックの時期で、繊維業界そのものがガタガタになっていた。
仕事が激減していた。知人から強く勧められたが、それでも桐生の親方たちに頭を下げる気にはなれなかった。知人は最後に、こう怒った。
「だから、いつまでも生活が苦しいんだ!」
いつも、ない、ない、と言って生きてきた。親身に助言してくれている人の言葉がつらかった。


こののちも藤田さんには頑固な気性ゆえの争い事が付いてまわったが、働き者の奥さんはずっと一緒に歩んでくれた。その人が夫を指して、こんな頑張り屋は見たことがない、とうなずく。
取材の途中で、藤田さんはこんなことを言った。
「大学を出た人は多い。当たり前のことだと思っているかもしれないが、じつはすごいことなんだ。当然なんて、思っちゃいけない。
大学まで出してくれた親に、ほんとうに感謝すべきなんだ」と。
たしかに世の中には、たくさんの人に支えられながら、それを自分の力と思い込んでいる人が、案外に多い。
藤田さんの会話には、現場を知り、現場で苦労に苦労を重ねてきた人だけが持つ、真実がこもる。
いいことなんか何もなかった人生に、ようやく訪れたもの。
そんな藤田さんに、最初の転機が訪れる。
資材関係の社長の紹介で「日本ジャガード刺繍工業組合」に入会したことだった。
初めて、あいさつに立った。
その頃の業界の人の多くは、桐生の者はどうせ金儲けばかりに忙しい連中と決めつけていた。そこに面と向かって切り出した。
「評判の悪い桐生から、しんがり者の人間がまかりこしました」
前から不愉快に思っていたところへ、あまりに様子の違う男が現れて意外なことを言ったから、拍手が巻き起こった。
それからあとは、好意を抱いてくれた人たちが寄ってきて、桐生ならこうこういう人を知ってるかと、次から次へと質問が寄せられた。どれも善意の声だった。しかし自分のなかに、桐生で心を赦せる人は存在しなかった。
ずっとのちに、組合のメンバーといっしょに、関西のいくつかの会社を訪問することがあった。訪ねた先は大きな会社で、そこでは立派な技術者たちが真剣勝負で刺繍と取り組んでいた。
霧が一気に晴れた。
俺は間違っていない。いいんだ、この道で。
関西人はあまり教えたがらないと聞いていた。が、そうではなかった。「くそまじめ」が受けたのかもしれない。ここで、たくさんのことを学ぶことができた。


ほんとうに花が咲いたのは、55才になってからだった。
藤田さんは職人だった。お金の計算自体が好きでないから、上手にはなれない。意地を張るから人ともぶつかる。それでも社員と家族が一緒になって、がんばっていた。
そんな藤田さんのもとへ、まるでTVドラマのように、一人の人物が現れたのだ。
それが、林さんだった。
今は藤田さんの右腕として、営業担当の役員をしてくれている方である。彼は浜松の東海染工で勉強し、故郷の桐生に帰ってきていた。聞けば、不思議なことに彼もまた、桐生のやり方に納得していなかった。
「これだけ充分な機械と職人さんがそろっているのなら、自分は何でも仕事を取ってくる」
彼はそう断言し、実際、その通りになった。
平成2年(1990)には、会社を桐生から大田へと移転した。
まもなくバブル景気がはじけ、多くの生産拠点が中国へとシフトしていった。同時にその頃から、一度に数倍の仕事をこなせる多頭式のジャガードミシンへと主流が変わっていった。
藤田さんはやや拡散しはじめていた業務を改め、本来の刺繍にもどろうと決めた。





ほかの会社が放り投げたことも、やってみる。成長できるから。
藤田さんの会社の強みは、別の会社が断念した仕事でも引き受けられる点にある。
出来ますかと問われれば、出来ます、と答える。そのあとすぐにミシン屋に行って、なんとかやれそうなミシンを買う。
新聞に「商売、やめます」の記事が出たなら、そこで使われていたミシンを買いに行く。いつ使うのかわからないものばっかり買って、と言われたが、とにかく片っ端から買っていた。
だからここには、ひと時代前のものから最新鋭のものまで、さまざまな機械が揃っている。
なかには、今では存在しないメーカーのものもある。それでも、部品がないなら自分でつくり、変形していれば調整し、何台かは壊しながらも、ちゃんと使えるようにしていった。
いまやミシンの種類は圧倒的だし、自作のアタッチメントは数えきれない。
ときにはそうした膨大なミシンのなかから、100年以上も前のものを引っ張り出すこともある。まさにいつ使うかわからないミシンも、今となっては頼もしい。
だれでも知っているようなヨーロッパのブランドが、パリコレに出展する全身刺繍の服もつくった。著名なブランドからの依頼は今も多い。求められた仕事に対応できる力は、きっとそうした元々の土壌から生まれてきているのだろう。
藤田さんは、必要なら、機械だって自分でつくってしまう。
原反をカットする縦切りカッターは、買うとなれば中古でも高いから、自分でつくってしまった。減速モーターも自作だ。ミシンを運ぶ台もつくった。
売るわけじゃなく使うわけだから、機能を果たせればそれでいい。ホームセンターや資材屋で調達すれば、大抵のものは揃うし、動力系のことは自動車の修理工場で学んでいる。溶接だって自分でする。この人には何より機械屋としての素地があるのだ。
世間でいう社長室なるものは、ここにはない。
応接室も兼ねたその部屋は、工具置き場のようだ。いまだ現役のたくさんの道具たちが、いつでも使えるようにびっしり仕舞われている。壊れるたびに修理に出していたのでは、無駄だから。
うれしいのは、何でも工夫して自作するやり方が、若い技術者のなかにも身についてきていることだ。
縫うのはミシンが縫う。まわりに、その機械のメンテナンスをできる人がいる。当然のことのようだが、実際にできる人は少ない。


社長室にはたくさんの工具があります。


信じたことを、続けてきてよかったと、つくづく思う。
「売上げばっかりがんばれという会社は、元気が出ませんよね」
なにより自分自身が一番苦労してきたから、働く人の気持ちがわかるのだろう。20才代を中心に従業員が30名を超えた今も、顧客からの難題をやり遂げることに大きな喜びを感じる。
最近、変わってきたことがいくつかある。
昔は暗いところでもすっと針が通ったのに、今はなかなか通らない。職人の意地みたいなものがあるから言いにくい。目が見えなくなったり、重いものが持てなくなると、子どもみたいに悔しい。
だけど、歳をとって意地を張ったって損をすることばかり。最近は、そう思い始めている。
ずっと同窓会には行かなかった。いや、意地っ張りだから行けなかった、というほうが正しいだろう。
この人流に言うと、「こんなろくでもない男にも、プライドはある」となる。やっと人並みに暮らせるようになって、それなりに自信もついて、ようやくのこと足を運んでみた。
今では、同窓会の永久幹事を仰せつかっている。
藤田さんは、こう結んだ。
「今、アパレル業界は疲弊していますよね。でもアパレルがダメだから次は何が儲かるか、ではないでしょ。ここまで何をもって食べさせてもらってきたのかを振り返るべき。その頃にはきっと、贅沢だってしてたでしょ。次にどんな時代が来ても、やっていける準備をしておくべきだと思うなあ」。
厳しいことを言ったあとに、僕には大きな欲なんてない、ここで生活できればいいんだ、と少年のように笑った。
無類の人懐っこさのその奥に、うらやましいほどにまっすぐな背骨が見える。
