わい
わいがや倶楽部

ああ、この人にはかなわない!
名人に会いたい

Vol.1 YAMAGUCHI Michiko

山口 道子さん

長野県在住 84歳(フレックスジャパン株式会社 嘱託)


ミシンでつながる教え子は、世界各地に散らばる。

14才だった。
山口さんは長野の自宅からもほど近い、当時の北信布帛雑品工業に入社した。同年代の人たちとともに、すぐに「さくら組」へと編入された。新人たちが最初にミシンの扱いを覚える部署である。とはいえ当時は、母が着ていたものを子ども用に仕立てなおして学校に通っていたような時代だったから、娘たちはだれもが多少とも裁縫の心得をもっていた。山口さんはとくに縫うことが好きだった。仕事はいまほど、らくではない。盛夏には、たくさんの人と機械とで工場内はむせかえる。冷房はない。冬は石炭をくべたダルマストーブだけで、寒さで手がかじかんだ。大事な指先を自分の首筋にあて、体温で温めて作業をつづける。

会社が下請けの苦しい時代だったから、警察官の制服上下、病院の人の前かけ、開襟シャツ……何でも縫った。作業を分担しあうのではなく、一人の人間が丸ごと仕上げる、いわゆる「丸上げ」である。一日に何着もこなして、互いに検査しあう。丸上げで鍛えられた経験が、やがて役に立つ。が、会社はなおも不振を極め、入社5年も経たぬうちにたくさんの人が退職していった。

転機が訪れたのは、のちに社員からキャップと呼ばれる現会長の入社だった。彼がシャツの専業メーカーへと転換を図り、工場のあり方を流れ作業へと刷新してくれてからだ。そこから会社は大きくなっていく。みずから機械を修理してくれるキャップは、経営陣の一人というよりも、工場の人だった。手で教わらなくても、言葉でたくさん教えてくれた。定年退職するまでの丸46年間をまっとうできたのは、つくづくその人のおかげだと思う。25才で結婚した。が、子どもに恵まれなかったことで、仕事を継続できた。39才で、韓国へ指導に行った。これを皮切りに、41才で台湾、48才で中国北京、54才で国内の天草工場、定年間際の59才のときにはインドネシアへと向かった。言葉もわからぬ国で、一方で学びながらの技術指導だった。

インドネシアの教え子たちと

インドネシアでの入社式

インドネシアからのお手紙

60才で退職した。ひと区切りだった。が、まもなく夫が旅立ってしまう。一人暮らしの山口さんを案じた遠い国の教え子たちから、どうしていますかと手紙が来る。宛名には、山口お母さん、とある。別の子は「いまではこんなに縫えるようになりました」と報告してくれる。みんな、懐かしく、可愛い。それでも会社に呼びもどされるなどとは、思いも寄らなかった。
いつか、82才になっていた。
会長となっていたキャップは、長野県屋代にある本社工場の存在意義がだんだんと薄れつつあることを危惧していた。伸びているオーダー品は、一枚ごとに顧客がいる。いきおい仕事が慎重にならざるを得ない。そうしたことで生産性が低下していた。一枚一枚仕様が違っても、だからゆっくり縫っていいということではない。合理的に最良のものを生む、工場の再生が急務となった。キャップの頭にすぐ浮かんだのが、もう一度「山口さんに教えてもらおう」だった。
2013(平成25)年8月、山口さんは現場に復帰する。

じつに22年のブランクがあった。
果たしてその姿は、自分が慣れ親しんだ工場とは遠くかけ離れていた。
かつては工場中に音が鳴り響き、戦場のようだった空間がすっかり静かになっていた。それだけ工場が動いていないことは、すぐにわかった。採算が取れる工場をめざす。昔、叩きこまれた教えが甦った。そのときは大変だが、がんばろうとする人には逆に張り合いが生まれる。経営者が言いづらいことでもあった。
キャップは、作業者が慣れすぎてわからなくなってしまっている、それぞれの機械の再点検をお願いした。山口さんに縫ってもらえば、それが適切かどうか、すぐにわかる。彼女がいいと言った方がいいに決まっている、との確信があった。永年の我流を捨てるのだから最初はやりにくくても、我慢してつづけてもらったら、結果がみるみる変わっていった。
一気に縫うべきところで、手を止める人もいた。それが癖になると、正しい縫い方は身につかない。上へは行けない。手や指の使い方も指導した。

すぐに、驚くべき効果が現れはじめた。
山口さんは製造工程にはたずさわらない。もっぱら技術支援で、後輩たちの間を精力的に動きまわる。朝の出勤時に、玄関の階段をかろやかに駆けあがっていく身の軽さは、いまも健在だ。復帰1年足らずで現場は生まれ変わり、生産性は格段に向上した。若いスタッフたちは、高齢の山口さんのがんばりを目の当たりにして、私たちが負けていてはいけないと、心の襷をきゅっと締める。
キャップは、山口さんの存在は会社にとって幸運なことだった、と語る。
山口さんはなにより、働ける場を与えてもらったこと、朝夕の送り迎えをしてくれる仲間にも感謝しながら、時代は変わっても「速く、きれいに、やりやすく」を貫く。いまも週の何日かは工場に向かう。老いる暇は、まだない。

山口さんが描かれた幼少時代の絵

山口さんが描かれた幼少時代の絵