
香川手袋「恋の逃避行からはじまった、日本の手袋。」
「香川のてぶくろ資料館」 を訪ねて
香川県東かがわ市湊1810-1/日本手袋工業組合会館内/0879-25-3208
物語は、或る、道ならぬ恋から始まっていた。
今からおよそ130年も以前の、明治の初期のころ。舞台は四国の香川県、現在の東かがわ市にあった白鳥村での出来事だった。
村には千光寺という寺があり、そこに両児舜礼(ふたご しゅんれい)というお坊さんがいた。そして彼は、地元のまだうら若い乙女であった三好タケノと互いに強く惹かれ合っていた。
時代がもっともっと下っていれば、二人はそのまま周囲に祝福されて添い遂げられていたかもしれない。しかし江戸時代が幕を閉じてまだ20年ほどしか経っていない当時の社会の在りようが、二人の恋の行く手を厳しく阻んでいた。
家族と別れ、故郷をも捨てた十九才の女性の、向こうに待っていたもの。
どうにもならなかったのは、時代が廃仏毀釈運動のまっただ中にあったことだ。
明治新政府は神道を国家統合の幹に据え、仏教は外来の宗教だとして否定し、さらには彼らが持っていた地位や特権、財産をことごとく奪い取った。全国の寺院や墓地が破壊され、廃寺が相次いでいた。
副住職だった舜礼には、すなわち、結婚の前提となる、これからを生きていく生活の手立てそのものがなかった。
しかも彼は、齢34才になっていた。現代の感覚とは異なり、すでにかなりの年齢に差しかかっていたと言える。
一方のタケノはいまだ19才であり、二人の間には15才もの年齢の差があった。
そもそも恋愛結婚など、当時としては常識外れのことだった。本人たちの意思がどうであるかの前に、婚姻は親同士、家同士が決めるものとされていたからだ。地方の一村であればなおさら、まだまだ封建的な考え方に支配されており、勝手な行動は許されなかっただろう。
二人はついに海を越えることを決心し、大阪への逃避行を決行する。
生まれて今日までをともに暮らした家族と故郷を捨てるのだから、白鳥村しか知らない娘には、たとえ燃えるような熱情があったとしても相当な覚悟と勇気がいることだったに違いない。
1886年(明治19年)、二人は大阪にたどりつく。
慣れない土地で舜礼がやれるのは、僧侶として托鉢にまわることだった。タケノはどうにか、メリヤス製品の賃加工の内職を見つけた。
そこにらくな暮らしがあったとは、とても思えない。
ある日、舜礼の視線が釘付けになった。タケノが扱う内職のなかに、てぐつ(手靴)といわれた当時の指なし手袋があったからだ。
じっと眺めるうちに彼は引き込まれ、そこに自分たち二人の将来を重ねていく。
2年後には自ら手袋の製造に着手し、郷里からタケノの従弟だった棚次辰吉ら数人の若者を呼び寄せて、本格的な活動を始めた。

白鳥神社の敷地にある手袋産業の祖、棚次辰吉の銅像(中央)と、棚次を見出した両児舜礼師の碑(右)。
しかし、物語は暗転する。
あらたな目標を得て希望に燃えていたはずの舜礼は急病を患って、3年後にあっけなく他界してしまった。新天地の大阪で暮らし始めてまだ5年、突然一人で放り出されたタケノの嗚咽が聴こえるようだが、その後の詳しいことはよくわかっていない。
まもなく棚次辰吉らが帰郷して、あたらしい地場産業として香川手袋を育てていくことになるのだが、残念ながらそこにタケノの名も姿も見当たらない。
帰るに帰れず、二人が育てた手袋だけが里帰りを果たした。

手袋製造の100周年を記念したモニュメント
はからずも手袋づくりは、
あらたな東かがわの救世主となって根づいていく。
少し前までの東かがわは、塩、砂糖、白鳥神社と、白にゆかりのある通称「三白」で潤っていた。
瀬戸内という地の利を生かした製塩業と、いまでは三盆糖として知られる砂糖の製造、そして高松藩初代藩主が造営し幕府から朱印地という特権を与えられた白鳥神社の門前町であることが、長く重要な経済基盤を成していたのである。


白鳥神社
が、塩と砂糖は明治の世になって海外からの輸入品に押され、製造技術の立ち遅れもあって急速に衰退していた。
明治中期には、とりわけ製塩業に従事していた人々の救済が喫緊の課題となっていた。白鳥神社もまた徳川の世が去って、朱印地の威光が消え去っていた。
そこで浮かび上がってきたのが、後継者によって持ち帰られた手袋だった。あらたな産業はなにより現金収入につながるものであり、地域としては喉から手が出るほどに欲しかったものだった。
こうして1899年(明治32年)、手袋製造の技術とノウハウを持ち帰った棚次辰吉が中心となり、作業場は地元教蓮寺の住職が提供、資金を塩田の大地主が拠出した手袋事業所「績善商会」(しゃくぜんしょうかい)がスタートした。

軽便飾縫ミシンと棚次辰吉
ドイツ製手袋を参考に軽便飾縫ミシンを開発し、明治35年に特許取得を記念して撮った写真
香川の手袋が地元にしっかりと根を下ろすきっかけとなったのが、1914年(大正3年)にはじまる第一次世界大戦だった。
それまで欧米での最大の手袋生産国だったのがドイツで、織物と編物の材料生産と出来上がった手袋の物流を担っていたのがイギリスだった。その2つの国が戦争をはじめたわけで、ドイツに代わる調達国としてイギリスから大量の注文が舞い込むようになった。
時代は激しく動いた。まもなく社員1000人規模の「大阪手袋」と「東洋手袋」という2つの大規模工場がつくられ、前者を棚次辰吉が代表を務めた。
残念ながら、いずれも終戦後に閉社となり解散してしまったが、この時期に技術を修得した人たちによって、あたかも渇いた地面に水が沁み込んでいくように地域全体に手袋づくりを浸透させていくことになる。
はじめは防寒という機能からスタートした手袋は、戦争や競争に翻弄されながらもファッションへと昇華し、ブライダル需要を生み、さまざまな機能を身につけ、さらにはスポーツの世界へと、そのつど需要を耕しながら発展してきた。
いまでは東かがわ市を中心に、国内メーカーの9割がここに集結している。

大正時代 大阪手袋株式会社縫工部の作業風景

大正時代 大阪手袋株式会社讃岐支店

東洋手袋株式会社 白鳥工場
手袋にかけた先人たちの想いが詰まった貴重な資料館。
日本手袋工業組合の建物のなかに、「香川のてぶくろ資料館」がある。
2008年(平成20年)に当地での手袋製造120年を記念してつくられたものだ。有志たちが、長きにわたる人々の足跡を丹念に追い、貴重な写真や各時代の製品、製造設備、資料などを集めて出来あがった。
舜礼とタケノがまいた種が、無数のバトンタッチを経て育まれ、いまや海外にまで広がっている。手袋にかける人々の思いの熱さと使命感が生んだもの、と言えるだろう。


手袋産業120年を記念して2008年につくられた「香川のてぶくろ資料館」。手袋に関する貴重な資料が揃っています。



プロゴルファーやプロ野球選手などのトップアスリートが使用した手袋も展示されています。
すべて厳選された材料と卓越した技術により東かがわ市で作られました。


資料価値の高いファッショナブルな手袋が多数展示され、その時代の流れをかんじさせない新鮮さに驚きます。
これは昭和5年頃の製造。縫製デザイン共に手仕事の極みの出来栄え。
資料館づくりを監修し、自ら館長も務める橋本康男さんは、1953年(昭和28年)創業の株式会社ハシセンの現会長でもある。
同社は、国内および海外ツアーで活躍する著名プロのゴルフ手袋などを供給している。
橋本さんは若いころには東京の大学に通い、そのまま貿易商社に就職していたが、先代が突然に亡くなって呼びもどされ、27才で後継者となった。
父から直接教えを乞うたことはないが、手袋に向き合う後ろ姿はずっと見てきた。
以来今日まで、およそ半世紀の長きにわたって多くの開発と製造にたずさわってきた。思いと造詣は、人一倍強い。
奇しくも会社は、棚次辰吉が興した大阪手袋の跡地に立つ。



「先人の志を次世代に繋ぐ仕事は、私がやらなければならない気がした」そう語る橋本康男さん。
時代に翻弄され、この地で100年以上続く会社は1社しかないが、手袋という名の川は、いまもとどまることなく営々とこの地を流れている。
「まるで伏流水のように、どこかを掘れば染み出てくる。ここには、その風土があるんです」
橋本氏が、東かがわと手袋を愛してやまない理由でもある。

晩年の明石(旧姓三好)タケノ
■香川のてぶくろ資料館 www.tebukurokumiai.jp/museum
■グローブミュージアム www.glove-museum.com
■日本手袋工業組合HP www.tebukurokumiai.jp