わい
わいがや倶楽部
素敵な人生の歩き方 vol.1

Vol.1 FUKUI Junko

Lorenzo il Magnifico 文化賞 授賞
フィレンツェ マニフィコ クラブ日伊文化交流協会 主宰

福井 順子 さん
「遠い日、人前に立つこともできなかった女の子が、
いま、日本とイタリアをつないでいる。」


「福井はどこにいるんだ」
先生はわずかに顔を持ち上げて、たびたびそう言った。
叱っておられるのではない。おそらく先生は、無類の恥ずかしがり屋で、みんなの前に出ることもできない少女の性格を知って、わざわざ声をかけてくださっていたのだろう。
だれかが気づいてくれなければ、存在すら忘れられてしまいそうな、静かで地味な女の子だった。呼ばれてはじめて少女は、後ろのほうから、小さな手をそっと上げる。

そんな子がどうして、とても不可能と思える困難なことにも、果敢にぶつかっていけるようになったのだろう。いつ、どこで、何が彼女を大きく変えたのだろう。

振り返れば、いくつもの分岐点があった。
表面の静けさとは別に、福井順子さんの心の内はいつも、まるで小さな火山のように噴火をつづけていた。その時々で、何かしら、烈しくこみあげてくるものがあったのだ。
分かれ道に立つたび自問自答を繰り返し、そのつど自分の気持ちや感性に正直に決断してきた。が、それがために、人に言えぬ苦しみを招き、そして別れがあった。

キリスト教の要理に触れ、ヨーロッパを夢見た、修道院での日々。

順子さんは、静岡市に生まれた。
母方はみんな敬虔なクリスチャンで、日曜日にはそろってミサに行く穏やかな家庭だった。母が育ったころはメイドさんもいて、暮らしぶりも教育も高いレベルにあったと聞く。母の父である祖父は薬局を営みながら、貧しい人に薬をあげるなどしていた。かたわら、 神父さんのお世話もしていた。篤のあつい人だったようだが、しかし病床の神父さんに献血をしたあと帰宅して突然に倒れ、帰らぬ人となった。母の暮らしは一転し、すべてがゼロの生活になった。

ただ、どん底に落ちたからと言って、家族の心の在りようまでが変わることはない。苦しい時代に直面した母から順子さんが生まれたのは、日本がようやく高度成長の入り口に立った時期であり、世間はまだまだ貧しかった。
順子さんは学校に通いながら、ごく自然に、近くのサンモール修道院でキリスト教の要理を学ぶ。人を憎まない。一時的に感情が激することがあっても、最後には赦してしまう。キリスト教の包容力を知り、信仰心やボランティア精神が自然と身に沁みついていった。

一方で母は、クリスチャンでありながら、厳しい人でもあった。
しつけもそうだが、女の子がやるべきことと、やってはいけないことの線引きがはっきりしていた。出しゃばりすぎてはいけない。むしろ、右へならえを好ましいとする、当時の日本の社会背景もあったろう。そういう意味では、母もまた日本女性であった。
順子さんのまわりには、仏教に根ざした伝統的な日本人の生活意識と、キリスト教がもつ広汎な愛の世界との、両極があった。

幼い頃の家族写真 ・ お父様に抱かれるのが順子さん(左写真)

父母はともに、書や絵画に秀でていた。とりわけ父は文化に対する造詣が深く、自由な心をもつ人でもあった。設計士の弟と組んで、当時としてはかなりハイカラで斬新な、インテリアデザインを生業としていた。
娘は父の仕事や感性に、イギリスやフランスの香りを感じ、いっそう傾斜を深めていく。身近にあった異なる二つの世界がいつしか融合し、少女のなかに固有の世界観をつくっていったのである。順子さんはなかでも、より強く洋の世界に惹かれていった。

音楽家やオペラ歌手に憧れ、遥かな国に想いを馳せていた思春期。

小さいころから音楽が好きで、音楽家やオペラ歌手を夢見ていた。そうした想いは高校生になっても、止むどころか、いっそう募っていった。
教室での勉強は空のごとくで、興味がわかない。もらってくる通信簿には「いつでも夢見る少女です。勉強すれば素晴らしい成績が取れるのに、しない」と先生の、どこか嘆くような一行が添えられていた。

姉や兄は大学に進み、おもいおもいの道を自由に生きようとしていた。
果たして、自分はどうか。
音楽への熱情は変わらない。ただ悔しいことに、その前提となる人前に立つ勇気が幾つになっても湧いてこなかった。自分は舞台には立てない。それはきっと、これからも変わらない。
ならば、大学へ進んでも無駄な時間になるのではないか。平凡で平安な歩き方を拒絶する自分がいた。

一旦は憧れを封印し、卒業後の1年間は地元静岡で働いた。
仕事に不満はなかったし、むしろ申し分のない職場で、会社にはとてもよくしていただいた。しかし、距離を置くほどに、美しいもの、美しい精神にいっそう惹かれていく。いずれは音楽か美術の仕事に就きたいと思っていたし、なにより、おなじ所にとどまってい られない性格だった。自分の目と自分の足で、ほかの世界を見、歩いてみたかった。

あるとき、美術の勉強をしたい、と親に申し出た。
いつもなら何でもやってみなさいと言うはずの父が、このときは「苦労するだけで、生きていくのに何の足しにもならない」と言った。が、このままの日々をつづけていたのでは、一生、羽ばたけない。
上京して専門学校に通ったのち、少しして、テキスタイルデザインの会社に入社した。

会社のボスはフランス人で、イタリア人の友人がいた。二人はいつもフランス語で会話していたから、順子さんもすぐにフランス語学校に通うようになる。ごく自然に洋の生活や人生観が入り込んできて、ヨーロッパに近づいていく自分を感じていた。

深い意味があったかどうかは知らない。
あるとき、ボスの友人であるイタリア人が言った。「君はイタリアが合っている。それも、ローマやミラノではなく、フィレンツェがいい」と。
そのときは、何気なく聞いていた。ただ、いま振り返れば、あのひと言が後に踏み出す道を最初に明るく照らし出してくれたとも言える。
実際そこには、クリスチャンの家庭に生まれ育った環境と、長い間想像と憧れのなかにあった世界とが、一つにつながっていた。
神の啓示だったのかもしれない。

向かったフィレンツェには、夢のような日々が待っていた。

上京してすでに10年ほどが経っていた。
そろそろ結婚適齢期でもあった。このままではいずれ自由がなくなるだろう。恋人がいたが、何にしても踏み出そうと決心した。
海外で住み暮らすには、かなりの費用がかかる。蓄えるために、一旦は郷里静岡にもどった。昼間はピアノの販売会社で働き、夜は11時までフランス料理店でバイトした。
恋人とは、1年間の滞在ののち、帰ってきたら結婚するという約束だった。目標の金額に達したとき、きっかり1年間有効のエアチケットを購入し、ヨーロッパへと旅立った。

選んだ先は、文化、芸術、歴史の古都、イタリアのフィレンツェだった。
特別な目的があったわけではない。すでに職業としての音楽家はあきらめていたし、イタリア語も話せなかったが、そうした世界に囲まれて生きてみたかった。
フィレンツェ大学のなかに外国人のための語学学校があり、ともかくもそこに通った。何とかなるだろうと思っていた。ひ弱だった順子さんは、もう、一人異国で暮らせるほどになっていた。

時を惜しむように名だたる劇場へと足を運んで、毎晩のように生の音楽を聴き、憧れのオペラを鑑賞した。ミラノ、ナポリから、ときにはロンドンやウィーン、ザルツブルグにまで足を伸ばした。夢のような時間が流れていた。
1年は、またたくうちに過ぎていった。

ある時、友人を介して一人のイタリア人と出会った。その人は建築を学びにこの地へとやって来て、フィレンツェ式のモザイクに目覚めていた。不思議なことに彼は、日本の古典である「伊勢物語」を読んでいた。日本語を学びたいイタリア人と、もっとイタリアを知 りたい日本人とが交錯した。運命のいたずらだった。
帰国が近づいて、思いがけず、彼から求婚された。

滞在期間を終えて、約束どおりに帰国し、恋人と再会した。
が、若い二人に1年という月日は長すぎたようだ。どちらからともなく「じつは……」ということになった。彼にも愛する人ができていた。

フィレンツエの街並み
愛し愛された父と母と、そして祖国との別れ。

そのとき、まったく予期せぬことが起きた。
しびれを切らした求婚者が前触れもなく、突然、イタリアから押しかけてきたのである。心底、あわてた。両親にはまだひと言も話していなかった。
覚悟を決めて、おずおずと二人に告げる。母はせっかく来たのだからと受け入れてくれたが、父は会わん!とみごとに拒絶した。
ところがイタリア人のほうは、父以上に強引だった。僕は迎えに来たんだ。だから連れて帰る。了解してくれ、であった。
ふだんは自由な心と進歩的な考えを持つ父も、さすがに耐え難かったに違いない。父は最後に、振り絞るように言った。「行くなら、娘は死んだものと思う」。返せる言葉など、なかった。

ここまで自分は、心の底から湧き出てくるものに正直に生きてきた。
気持ちの整理がつかなかったが、はるばるやって来たこのイタリア人男性もだれかの指図とか何かの打算とかではなく、ただ自らの情熱にしたがうことで、たまらず飛行機に飛び乗ってきたのである。
だからこの人には、きっと強いものがある。そう思い、順子さんはともにイタリアへと旅立つことを決心した。
泣いた。激しく泣いた。母も、姉も。きっと、父も。

育ててくれた両親と別れることは、帰るべき国を失うことでもあった。
さらわれるようにしてイタリアにもどったが、心細さが募った。それでも両親はいずれどこかで、順子は必ず日本に帰ってくると期待していたようだった。
が、しばらくして、報告しなければならないことが起きた。
電話口で母に、子どもが授かったことを告げた。ここに至って両親の、かすかな望みすら絶つことになった。細々とつながっていた糸が、ぷつんと切れた。

一人きりになったら、凍えるような冷たい風が吹き上げてきて、おもわず身震いをした。
この先一人で、いったい何ができるのか。わずか1年ばかりの語学力で、妻のこと、主婦のこと、母としての仕事をやっていけるのか。
すべてを捨てたのは自分のはずだった。が、自分こそが捨てられたような、言い知れぬ孤独感と不安のなかに立ち尽くしていた。

日本とイタリアの子どもたちのために、文化という名の橋を架けよう。

助けを求めることもできず、来る日も来る日も異国で一人、二人の子を育てる苦しい日々が待っていた。
あっという間に20年ほどが経過していった。その間も、できる範囲で小さな文化活動を続けていた。迷いはあった。これがかつて胸を焦がし、憧れ、自分がやりたいと切に願った日々だったのか。

子どもが誕生してからは、両親のもとへと子を連れて足繁く往復した。どこかに詫びる気持ちがあったのかもしれない。
経済的には、そんな余裕はなかった。だからあるとき試しに、自分がいいと思ったイタリアのブランド品を持って帰った。それを、姉がやっていたレストランの片隅で売ってもらうのである。ところが、これが受けた。
幸いにも当時の日本は、イタリアブームだった。いいものをできるだけ安く購入して、日本でも安く販売する。個人のセレクトショップの先駆けのようなものでもあった。おかげで往復の旅費を捻出できたうえ、多少の余裕もできて、フィレンツェにアパートを買うこ とができた。
そしてそれを文化活動の拠点にしたり、日本から来る方々に提供した。

かと言って、お金の力で文化活動を行うことは嫌だった。
自分がやるのは営利ではない。おまけに、免許とか資格とかの類いは何一つ持っていない。大使館や大手企業などがやるレベルのことを、ごくごく小さな単位でやり遂げることに使命がある。たいていは持ち出しになるが、開催できたときの喜びは何物にも代えがた い。その想いだった。

子どものころ、身近に茶道や華道があった。そして東京にいたころは、相反することへの興味もあって、観世流の謡いや筝曲にも親しんだ。
そうした蓄積もあって、イタリアに来てからはよりいっそう強く「和」を感じるようになった。日本の伝統や生活といったものが、愛おしくなっていったのだった。

イタリアで築いた素敵なご家族。旦那さま、そしてふたりの息子さん。
最後に待っていた、人生最高の栄誉。
Lorenzo il Magnifico文化賞受賞の報らせ。

個人ベースの活動には限界もあるが、逆に、着想から調査、企画、依頼、交渉など、いわば声かけから開催前日までのことを、すべて自分でしてのけられる利点がある。一人なのだから、決裁を仰ぐ時間は一切かからない。
そうして10年前、子どもたちのゆたかな未来を願い、社会貢献から慈善救済活動、そしてさまざまな文化芸術の催事までを行う日伊文化交流協会「フィレンツェ マニフィコ クラブ」を立ち上げた。

マニフィコとは、ルネッサンスに代表されるフィレンツェの隆盛を生んだメディチ家の始祖、ジョヴァンニ・ディ・ピッチの孫にあたるロレンツォ・イル・マニフィコのことである。
同家では祖父や父の名が繰り返し付けられることが多く、フィレンツェの人たちがとくに彼を「偉大な」という意味の尊称、マニフィコで呼んだものである。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチとも深い関りをもち、政治、学問、芸術の各分野において卓越した功績を遺している。
迷いに迷ったが、そんなたいせつな人の名をクラブ名に使わせてもらった。フィレンツェの人も、何て日本人なんだと、驚いたことだろう。

クラブ組織として自分でプロデュースしたこれまでのさまざまな催事は、ほとんどが自前で、大きな企業や団体などに依存することはなかった。
自らが演出家になり、芸術家にもなり、評論家にもなる。そのために徹底して勉強もした。だからいつも資金繰りで苦労し、知り合いを訪ねたり、手紙を書いて寄付金を募った。苦労は絶えず、ふところはいつも音を上げていた。
それでも強い思いがあったから、イタリア人でもなかなか実現できないピッティ宮殿やメディチ・リッカルディ宮殿で催事を行うことができた。

催事のパンフレットも自ら作成。


そんな順子さんのもとに、ちょうどクラブ発足10年の節目に、これ以上ない最高に幸せなニュースがもたらされた。

ほんとうに驚いた。
これまでの活動から、フィレンツェの文化団体 Accademia Internazionale Msdicea から、あのマニフィコ氏の名が冠された「Lorenzo il Magnifico 文化賞 」が授与されるというのだった。一介の主婦であり、しかも日本人の女性に対して、であった。
2017年6月10日だった。
いつも輪の中心から外れて、その存在すら気づかれなかった小さな女の子は、長い歳月を経て、あれほど苦手だと感じていた舞台の上に、しかも由緒あるイタリアのステージの上に、万雷の拍手とともに立っていた。

2017年6月10日に行われた授賞式の様子
Lorenzo il Magnifico 文化賞、
表彰楯
授賞式の会場となった、ヴェッキオ宮殿( Palazzo Vecchio)の
500人大広間。



自分の人生を顧みて、思う。
人には隠された力がある。抑えきれないほどの情熱があれば、知らないうちにそこに立つことができる。
それに、人にはどこかに、自分を見てくれている人がいるとも思う。だから、見えない力が働いて、できもしなかったことができてしまうのだろう。

それぞれは曲がりくねって、途切れた道もあったが、振り返れば不思議に一本につながっている。いまでは、まるであらかじめそう造られていたように、まっすぐな道が見える。
だから、みんなに、こう語りかけたい。それは何より、いま、自分がいちばん強く思っていることでもあるから。
「神様って、いるよね」。

取材:瀧 春樹

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