わい
わいがや倶楽部
じわ〜っと沁みてくる君の背中に贈る言葉 4

vol.4 MIYAGAWA Tadashi

宮川 正 氏

防衛省 情報本部長 空将

そのときそのときを誠心誠意やっていれば、
何だって乗り越えられる。

永く航空自衛隊に身を置き、戦闘機の操縦席から、日本の空を守ってきた人である。

宮川正氏が入隊したころは、戦後すぐに始まった東西冷戦のさなかにあり、ソビエト連邦機が領空侵犯を繰り返して頻繁に日本の本土を周回していた。国籍不明機に対処する、スクランブルと呼ばれる緊急発進の回数は、年間で悠に900回を超えていたほどだ。
やがて91年にソビエト連邦が崩壊して、一時はおさまったかに見えていた。が、あまり知られていないことながら、ここに来て中国機やロシア機などによって再び以前と同レベルの、危険な状況にもどりつつある。
それにしてもこうした任務が、隊員たちの心身にどれほどの緊張を強いるものなのだろうか。容易に想像がつくとも言えるが、しかし、空の上の実際の現場は、我々の想像など遠く及ばないすさまじいものであるに違いない。

空将にして第8代情報本部長の要職にあるその方は、どれほど厳しく、揺るぎない意志を持って生きてこられたのだろうか。内にかすかな畏怖を抱きながら、防衛省の門をくぐった。やがて目の前に現れた方は、終始おだや かな笑顔を絶やさず、ときおりは冗談を交えながら相手をリラックスさせてくれる、やさしい心配りをもった無類のジェントルマンであった。

長野県を走る「しなの鉄道」に乗って上田駅から3つ目に、どこか懐かしい佇まいを残す木造駅舎がある。坂城(さかき)駅である。そこから10分ほど歩いた線路沿いの家に、宮川さんは長女の下に3人の男の子が続く4人姉弟の末っ子として生まれた。長兄とは8才、すぐ上の兄とも6才離れた子だったから、甘えっ子だった。北信濃のゆたかな自然のなかを無心で、縦横に山を登り、川に飛び込んでいた。

が、小学生のときに、父が他界する。それからはずっと一家を背負って奮闘する母と、長兄たちに育てられることになる。
そんなころだった。生涯の心の拠りどころともなる剣道と出会う。地方のこととて立派な道場があるわけでもなく、どこかの指導者が小学校の体育館にやってきて教えてくれた。少年はたちまち熱中し、坂城中学、上田高校 と、剣道一筋の日々を送る。

昭和40年(5歳)頃、 父母と自宅前で。

昭和49年 全国中学生剣道大会。

          

大学も、剣道部のあるところから探した。母親たちが苦労していたこともあり、教員資格を取ろうと教育学部のある国立大学をめざしたが、第一志望には見事に失敗してしまう。とはいえ、父のいない家庭で浪人生活は許されない。
最終的には私立大学の法学部に進んだ。一日中剣道ばかりの生活までは望まなかったから、学部にある剣道部に入った。ほかにやるべきことがあったし、勝ち負けよりも、それを続けることが大事だと思ったからだ。おかげで教員資格を取得できた。

いつのまにか就職先を探す季節が来て、何となくではあるが剣道を続けられる教員とか警察官とかの職業を思い描いていた。ただ、人にはいろんな道がある、とも思っていたから、民間企業の内定ももらっていた。漠然とだが、自宅で理髪店を営む長兄とサラリーマンになった次兄とは異なる道を歩んでみたいという思いも一方にあった。

そんなときだった。自衛隊の採用担当者から、航空自衛隊のパイロットを募集していると聞かされる。そのときまで、防衛大学校出でなく一般大学出でも入れるものとは思っていなかったから、大空を羽ばたくことに強く惹かれた。空を飛ぶのだからこれほど行動範囲の広い仕事はないし、自分を賭けていい仕事だとも思った。
ただ、ここまで育ててくれた母は、新婚早々のときに父を戦地へと送り出していた。自分の息子がそうした仕事に就くことを心配しないわけがない。しかも飛行機に乗ろうというのである。
しかし母は、心の内はともかく、反対はしなかった。

F-15戦闘機

一般大学出身者が自衛隊に入るには、まず公務員採用試験(入隊試験)に合格しなければならない。これをクリアした宮川氏は1982年4月、晴れて奈良市にある航空自衛隊幹部候補生学校へと向かった。全寮制の厳しい規律のなかで1年間、基礎訓練などの教練に明け暮れる。
毎朝6時に起床し、洗面、点呼のあと上半身裸になって乾布摩擦をし、長い距離を走る。そのあと、地上での勉強や実技などの授業が昼食を挟んで夕方まで続く。再び走り、トレーニングをして、ようやく入浴である。夜には次の日の準備と勉強とが待っていた。

だれもが飛行機に乗れることを保証されているわけではない。人数に制限があるから、身体能力、気力、技量で劣れば、容赦なく落とされていく。
学科修得と練習機による実技、視力も含めた身体検査などを通じて、その人が資格を得るだけの資質を備えているかかどうか、ベテラン教官が見抜いていく。ここである程度がふるいにかけられ、ようやくスタートラインにたどりつくのである。

宮川氏は幹部候補生学校を修了後、約3年にわたって戦闘機パイロットとしての訓練を受ける。最初に戦闘機に乗ったとき、これは大変な仕事だと思った。憧れとか、かっこいいとか、そういう世界ではまったくなかった。
戦闘機は、敵機との戦いが前提である。パイロットは重力に耐えられる体力を養い、飛行技術を身につけ、そして戦技を磨かなければならない。真剣の上にも真剣に取り組まなければ、とても成り立たない職業だった。
氏はやがて、わずかな人だけに与えられる、念願のウイングマークを取得した。ただしその資格は、毎年更新が必要なものである。つねに高い身体能力を維持し続けていなければならない。戦闘機パイロットのピークが40才と言われるのはそのためだ。
入隊後の3年は青春がなかった、と氏は述懐する。

昭和59年頃、ウイングマークをめざす。

平成二年の秋、 防大指導教官(横須賀)時代。

まもなく北海道の千歳に基地がある第2航空団に配属された。冒頭に紹介した、スクランブル発進に追われる緊張の日々が待っていた。
その後、アメリカの空軍大学に1年間留学し、指揮幕僚課程を学ぶ。米軍人のみならず諸外国からも文民を含めてさまざまな人が参加しており、多くの出会いがあった。その経験を踏まえ1999年には、防衛駐在官として3年間をアメリカで過ごすことになる。
その間に、アメリカ同時多発テロ「9.11」が勃発した。

ふだんの勤務地はワシントンに近い在アメリカ日本国大使館で、9月11日のその朝は、日本から来た国会議員を空港まで迎えに行く途中だった。TVでは、テロではなく「アタック」と叫んでいた。かつて例のない本土攻撃が行われており、それはニューヨークを象徴する超高層ビルと、さらに氏の情報収集先でもあるワシントンの国防総省、いわゆるペンタゴンまでが標的にされていた。まさしくアメリカの中枢部が攻撃されていたのである。

何が起きているかを速やかに確かめなければならない。
周囲はパニックの只中にあったが、そういうときこそ冷静に考え、行動しなければならない。が、すでにワシントンでは避難命令が出ており、道路はすべて封鎖されていた。仕方なく車を乗り捨て、徒歩でペンタゴンへと向かう。
着いた先々で顔見知りの軍人たちから状況を聞き出し、思うにまかせない携帯電話に苛立ちながらも、日本に発信をしていった。
こうしたときに自衛隊員が右往左往してはどうしようもない。何をやらなければいけないかがわかっていれば、対応できる。我々はそれを訓練されてきたのである。

米国駐在武官時代。日本大使館公邸のパーティで。(2002年)

在日米軍司令官アンジェレラ中将と。(2015年)

          

2004年にはイラク人道復興支援をミッションに、混乱のなかにある中東地域へと向かった。もとより、先例のない任務である。先遣隊長として、いわば自分で道をつくることが仕事だった。
思いきってやってこい、との言葉を背に、気負いはなかった。
幸い氏には、以前に現地調査をすべく、数週間ほど同地に滞在した経験があった。それに任務は、米軍司令部との付き合いの延長線上にある。地域からくる環境と文化の差はあっても、仕事上の違和感は不思議になかった。

このとき強く感じたのが、人と人とのつながりだった。
アメリカに滞在していたときに普通に交流していた多くの軍人たちと、ここで再び合流したのである。当時は、また会おうとは思いもせず、ざっくばらんに付き合っていた。何かを求めるわけじゃなく、ごく自然に、ただオープンに接してきたことの大事さが、あとになって沁みてきた。
国を超えた友情が中東の地で甦り、深まっていった。

ラストフライトを隊員たちが祝福。(2010年)

F15戦闘機での雄姿。(2014年)

宮川氏はいま、情報本部長の要職にある。
ずっとパイロットの運用畑を歩いてきた。現場で行動し情報をもらってきた立場から、こんどは情報を提供する逆の立場になった。寄せられるさまざまな情報を、先入観を持たず、それを使う人の立場に立って提供するのが仕事である。
したがって、総理大臣や防衛大臣などに提供することもある。適時、適切に、そして正確に、できるかぎりピュアな仕事を心がけている。

インタビューのなかで、とりわけ印象に残ったことがある。
2011年3月11日の、東日本大震災における自衛隊の活動のことだ。ご存じの方も多いだろうが、未曾有とされたこの悲劇のなかで、最も被災者に寄り添い、最も頼りにされたのが自衛隊の人たちだった。
宮川さんは、言う。
救助活動をするのは、我々にとって当たり前のこと。だれかが困っているときに動かないのは、変でしょ。隊員にとってはそういう感覚が普通で、だれが言うでもなくみんなが整然とやっていました。一般の会社でも、職場で教えてもらったことは自然と身についているでしょ、普通のことです、と。

ずっと遠くへは行かないようにしてきた。
特別な任務で離れるときは、必ず代理を立てた。事あるときに、すぐに集まらなければならないポジションだったし、もしそのときに、間に合わなかったりで自分が満足できる行動をとれなかったら、おそらくずっと後悔するだろうから。
氏は、いずれ定年退官なさることになる。そうなったら、いままでずっとついてきてくれた妻と、こんどこそ、遠くへ行きたい。
戦闘機を指揮し、永く日本の空を守ってきてくれた人が、もうすぐ、あなたの横を普通に歩いているかもしれない。

取材:瀧 春樹

福岡県築城基地航空祭にてブルーインパレスの演技。(2013年)