わい
わいがや倶楽部
ああ、この人にはかなわない!名人に会いたい 4

Vol.4 MIYAIRI Kozaemonyukihira

           
刀工
宮入 小左衛門行平 氏
炎に生き、炎に祈る。

いただいた名刺には、ただ2文字だけがあった。
刀工、である。ほかに何もない。
師でもあった父、宮入行平(ゆきひら)氏はこの国が誇る重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝だった。そしてその子は、父が鍛錬した技術と精神を十二分に継承し、独自に発展させる当代第一級の刀鍛冶でもある。これまでの業績から、本来、飾る言葉には事欠かないはずの人だ。

しかし、そんなことを束にして書き連ねても、ご本人はきっと、誰よりも落ち着かないのに違いない。
刀工に始まり、刀工に終わる。
父とおなじく、炎の一生でいい。紙片にある小さな2文字を眺めながら、あるべき姿を求めて一生旅をつづける修行僧の気迫と、みずからを刀工と呼び捨てる潔さが、聴き手の胸の内を貫いてきた。

刀剣から離れられない、おなじ血が流れている。

宮入氏の父のことから語らせていただく。
先代である宮入行平氏は実名を堅一といい、1913年(大正2)に長野県坂城町で生まれた。家は代々の鍛冶屋で、農具や刃物づくりをしていた。
子どもながらに父親よりうまいと評判をとったが、本人には田舎鍛冶で一生を終える気などさらさらなく、上京をして作刀の修行をしたいと幾度となく親に訴えた。が、許しは得られなかった。
いつかはきっと、とひたすら時機の到来を待った。

ようやく親から許しが出たのが1937年(昭和12年)、あまりに遅い24才のときだった。それでも父は、喜び勇んで東京の氷川町にあった日本刀鍛錬伝習所へと入門する。鍛冶の基本が成っていたから、みるみる頭角を現した。
やがて2年が経って、当初の約束だからと、親の意を汲んだ知人が連れもどしにやって来た。じつはその前年に、第三回新作日本刀展覧会ですでに総裁大名誉賞をもらっていたのだが、まだまだ一人前になるまではと、帰郷を拒んだ。
2年後の春には第六回の同展で海軍大臣賞を受賞し、秋には神奈川県に開校した日本刀学院で講師を務める。その後も次々と最高位の賞を手にした。天才だったのだろう。

だが、生きた時代もそうであったが、人生そのものは決して平坦なものではなかった。
世の中はしだいに戦争の気配を色濃くしていたし、表通りを堂々と軍靴の音が響くようになる。やがて東京は空襲下に入り、仕事は止まって、やむなく故郷の坂城にもどった。2年の約束が8年に及び、32才での帰郷となった。
以降は来る日も来る日も、軍刀づくりに従事させられることになった。

戦後しばらくは、刀鍛冶にとって暗黒の時代だったという。
敗戦国に武器である刀剣づくりは許されない。日常の道具をつくりながら、悔しい思いが何度も胸を突き上げていたことだろう。
ようやくにして美術品としての作刀が許され、美術刀剣の第一回コンクールが開催されたのが、およそ10年後の1955年(昭和30年)のことである。思いがかなったとき、父はすでに42才になっていた。

刀剣づくりを許されて、父は甦った。
そこからは身を焼き尽くすように、みずからの命を刀身に吹き込んでいく。
2年後に、次男が誕生した。後に父の遺志を継ぐ恵(けい)さん、現在の宮入小左衛門行平、その人である。
家には寝食を共にする、7人の弟子が住み込んでいた。作刀に熱中するあまり、父が家庭を顧みることはない。家族だけの団欒など、なかった。求めるところは高く果てしなく、それゆえ失敗の多い仕事でもある。
父の迷いや落胆は、たちまち家のなかに蔓延した。
恵さんは遠目から、父と弟子たちの仕事姿を見ながら育つ。

故 宮入行平氏の作品

刀剣、美術、文学……日本の文化を指し示してくれた父との別れ。

父は、50才で日本刀における無形文化財保持者となった。
60才になって、妻の病気回復祈願と作刀の心機一転を期して、刀匠名を昭平から、行平に改めた。
そして4年後の1977年(昭和52年)11月、母を追うように、突然自宅で倒れて帰らぬ人となった。
行年64才だった。

戦争もあり、大病もした。父がほんとうに、心おきなく刀剣づくりに打ち込めたのは、たかだか10年余りだったと、恵さんは述懐する。
特別展「宮入行平とその世界」の開催にあたって、参議院の副議長を務められた方が寄せられた一文に、こうある。
「貧乏や困難にも屈せず不撓不屈の精神を堅持し、世の汚濁に染まることなく鍛刀一筋に生きた」と。
あらゆる無駄をそぎ落とし、けがれなく、まっすぐに延びた刀身のようである。

人間国宝 故 宮入行平氏の顕彰碑(坂城町)

父の弟子たちとともに育てられた恵さんは、中学生くらいから手伝いをさせられてきた。が、仕事場での父との会話はない。これ、やっとけ。それだけだった。
修練は俗に、炭切り3年、向こう槌(づち)2年とされる。刀を熱するために赤松の炭を切りそろえることと、刀の材料となる玉鋼(たまはがね)を何度も何度も叩いて鍛えるための槌づかいである。
修業とはいえ、延々と叩きつづける。手ほどきなど、ない。叩きながら、自分の手が仕事を覚えていくのである。

そんな父が、遺してくれたものがある。
古典とも言われる、本物の日本の美に触れることである。高校生のころ、父は東京に出るつど息子を連れ出した。対象は刀剣にかぎらない。さまざまな美術展に足を運んだ。物言わぬ教育だったのだろう。やがて恵さんも、美術や文学の世界に惹かれるようになった。

お互いが、跡を継げとも、跡を継ぐとも、言わない。
思春期によくある反発もあって、恵さんは刀剣に背を向け、高校ではハンドボールに熱中した。努力の甲斐あって、インターハイにも出た。頑張ればできるんだなと、そのとき思った。
そして父は、一生懸命打ち込んでいることには、何も言わなかった。

かつて父がそうしたように、いまとは別の場所で自分自身を見つめてみたかった。1年半で答えを出すと決め、北海道の、とある酪農牧場へと旅立った。
そこには大地に根ざした日々があった。乳牛を相手に、一日中からだを使って働いた。爽快だった。
そのうえで自分は、再び作刀に関わりたいと思えるのか。渇望したときに、また刀と向き合えるのか。知りたかった。

恵さんは2年後に、帰郷を果たす。
最後に自分を突き動かしたのは、父が魅力的な男だったから、と今は思う。頑固さだけでなく、弱さも脆さも内包していた。しかもそれを、隠すことなく見せてくれた。

恵さんはまもなく、父が信頼もし、師範代のような役目をまかせていた福島のお弟子さんのところに身を寄せた。兄と弟みたいに育った方で、もともとそこで2~3年修行して、仕上げだけは父に学ぼうと思っ ていたものである。
しかし、再び家を出てわずかに2カ月後、燃え尽きるように父が他界した。あまりに突然のことだった。

当時をなつかしく語る宮入氏。

曾祖父と、父と、共に生きていく。「小左衛門行平」 と改名。

支柱を失った宮入一門の弟子たちは、それぞれの土地で作刀の根を下ろすべく、帰っていった。
そして恵さんは、みずからが愛し尊敬する存在がいなくなった瞬間、雷に打たれたように本気になった。
「これで駄目なら、ただのバカ息子じゃないか」、そう胸につぶやいた。
大きな喪失感を抱え、5年間、福島で作刀に没頭する。

恵さんは1983年(昭和58年)に、第19回新作名刀展に初出品をした。結果は、努力賞だった。その後も、優秀賞、寒山賞、毎日新聞社賞などを次々と受賞していく。そして、93年、95年、96年、98年、99年、00年と、幾度となく最高賞である高松宮賞も受賞した。

日本刀は、鎌倉期と南北朝期の作品が頂点とされる。
いわば千年近い歴史の掘り起こしから始まる、途方もない道のりがある。なかでも父が理想としたのが、相州伝とされるもので、歳月を経ても変わることのない「覇気」がある。優美さや繊細さとは一線を画したものだ。
その通りにできないわけじゃないが、いにしえの原形を想像し、自分が美しいと思う姿に置き換えていく。それが作刀である。
手本はあって、ない。

そもそも宮入家の刀剣づくりは、江戸末期に刀鍛冶をめざして江戸へと出た曾祖父「小左衛門」に始まる。父「行平」がこれを受け継ぎ、自身の美術や文化への造詣の深さから、独自の作風をつくりあげていった。
ところが、残念なことに二人は、はからずも思い半ばでこの世を去った。やりかけの仕事はいっぱいあったはずだ。
かれらが描き切れなかった夢のつづきを、こんどは自分がつくっていかなければならない。その思いから、二人の刀銘をいただいて、「宮入小左衛門行平」と名を改めた。

火の粉が飛び交うなかでの作業である。
手のひらはマメだらけで、腕は火傷のあとだらけだ。長時間座したまま作業をするから、全身が腱鞘炎にもなる。
みんな、上手に付き合っていくしかない。
それでも次の日になれば、まっ白な仕事着を身につけ、置石を踏み、父が遺してくれた鍛刀道場の門をくぐる。
そこは美しい庭に囲まれた、神の技が宿る神聖な場所だ。
入口には、身と心を浄化するためのしめ縄が張られている。広々とした土間に入り、神棚に手を合わせる。

氏はある時期から、その空間に、自分を守ってくれている誰かの気配を感じるようになった。
以来、たくさんの思いに包まれつつ、炎のなかに祈りを捧げながら、一心に作業に打ち込む。

信濃の一隅にあって、後世のために果たしていきたいこと。

父から受け継いだことが、もう一つある。
それは、自身の鍛錬と同時に、たくさんの弟子を育ててきたことだ。
以前には全国で400人くらいいた刀鍛冶も、いまは半分くらいになった。そのなかで専業で生きていける人は、50人を下回るだろう。
日本刀の火を消してはならない。日々の暮らしに煩わされず、きちんと暮らしていけるように弟子たちを送り出すのが、父から受け継いだ自分の仕事だと思う。

日本刀に限らず、日本の伝統工芸の大半が、先が見えなくなってきているように思える。
刀剣は刀身だけでなく、鍔(つば)、柄(つか)、鞘(さや)、鎺(はばき)などから成っている。
それらをつくる人がいて、仕上げの研ぎ師も、下げ緒を編む人も、鞘に漆を塗る人も、そしてそれ以前に漆を採取する人までいる。すべての領域で、黙々と修業を積んできた人と技術があって、やっと成り立つのが日本固有の芸術なのである。
が今は、そこにいるべき人がいなくなってきている。最後の一人になってからでは遅い。強く、そう思う。

そんな思いもあって、鍛刀道場の奥に「鍛刀道場傳習館」を建てた。
これから作刀を修練する若者たちが、集中して打ち込めるようにしたものだ。作業場の脇には、住めるだけの空間と設備も用意されている。

つい最近、驚くことがあった。
自分には跡を継いでくれる子どもはいないものと、すっかりそう思い込んでいた。ところが、東京に出て仕事にも恵まれ、結婚をして子どもまで授かった息子が、ここに帰ってきて刀剣づくりの修行をしたいと言ってきた。

いま居てくれている弟子たちは優秀だから、おそらく自分が息子を直接指導することはないと思う。
それに、刀工といえども、もはや一人で鍛刀場にこもっている時代ではない。さまざまな人と交流しながら、社会のことを学び、自分なりの道をつくっていかなければならない。
もっと言えば、これからは世界各国の人ともつながっていかなければならないだろう。

考えてみれば、自分もいったんは外へ出た身であった。
それが今、大いに役に立っている。
そうだった。なんのことはない、思い返せば曾祖父も父も自分も、何代にもわたっておなじことを繰り返しているのだ。

戸惑いながらも、遠まわりはわるくない、と父は思っている。

取材:瀧 春樹

宮入 小左衛門行平 氏 の作品