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長野県千曲市 坂口順一さん

「生涯剣道」


はじめて竹刀に触れたのは、中学三年生のときでした。担任の先生にすすめられたのがきっかけです。
本格的に始めたのは高校の剣道部からで、顧問であった小田弘文先生は県下でも最高指導者としてとても人望の篤い方でした。

もちろん大学でも剣道部に入部し、毎朝5時に起きて稽古をし、授業終了後の午後にも行っていました。
範士九段大野操一郎先生、範士八段矢野博志先生のもとで、4年間にわたり厳しい修行が続きました。なかでも思い出深いのが、九州の福岡大宰府での夏合宿です。玉のような汗が止まらない、一段と苦しい稽古を耐え抜いたおかげで、全国に素晴らしい剣友を得まし た。

左/国士舘大学時代 右/範士九段 大野先生よりいただいた書 「水 急にして 月 流れ不」





昭和55年4月に社会人になってからは、地元の更埴剣道連盟入会し、ここで恩師である小田弘文先生に再会できました。
同連盟の代表選手として先鋒で出場し、昭和55年の全信州剣道大会団体戦で初優勝。さらに第28回長野県剣道薙刀大会団体戦でも初優勝を果たしました。
その後は東京への転勤があり、結果的には長く剣道から離れることになりましたが、10年以上を経て郷里にもどってからは、再び道場に向かう日々を送ってきました。そして、四段、五段と順調に昇段を重ねていきました。

そこからです、これまで以上の試練が待ち構えていたのは。

七段の審査を受ける前になって、突然、稽古中に右足アキレス腱を断裂してしまったのです。それからはじりじりとするような、苦しいリハビリの日々が続きました。
一般的に、七段審査を受けるのは、まだまだ若さにあふれる30才代の人が主流です。
しかも、ほとんどが警察官や教員などの公務員か、あるいは実業団の選手とか、いわば普段から剣道に正面から向き合っている人たちばかりです。企業人として、営業という大切な職務があり、週にわずかしか稽古をできない自分とは、練習量が格段に違います。しか も私には10年間の空白と2年間のリハビリ期間があり、年齢はすでに55才に到達していました。

案の定、初めての七段審査は不合格。思うような自分の剣道ができないままに終わりました。
攻めが足りないと痛感した私は、あらためて攻めについて学び、自分なりに研究もし、こんどこそはと2回目の挑戦をしました。
が、結果は、またしても不合格。
攻めが形ばかりで、自分から攻めることで相手を引き出し、そこから技を繰り出していないことを思い知らされたのです。

稽古の様子。息子二人とも剣を交わしました。



すべては出直しでした。
師に稽古を付けていただき、七段講習会などに出席して、立ち合いを見ていただきました。
稽古ができないときには、自分には何が足りないのかを懸命に考えました。
そうしたなかで、一つ、発見がありました。
それまで自分は、姿勢がいいほうだと思っていたのです。ところが、自身の立ち合いの映像を見て、愕然としました。そこに映っていたのは、背筋が丸くなり、首が前に出てしまっているような無様な姿でした。
それからは、とくに構えの姿勢に注意を払うようになりました。
姿勢を正してあごを引き、肩の力を抜きながら肩を後ろに引くと、肩甲骨が動いて自然と胸が張れるのです。これは剣道ばかりでなく、ふだんの生活でもおなじです。そういえば、昔の先生方はよく、「へそを天上に向けるといい」と教えてくれていました。あらた めて実践してみると、へそが天を向く感覚がわかりました。

上達したい、の一心でした。
家のお風呂では、湯に浸かりながら身構え、激しく湯を切ってイメージトレーニングをします。廊下では、あまり強くして床がめくれ上がらないよう注意しながら、踏み込みの練習です。仕事を終えた夜には、竹刀を持ってガラスに映る自分に対峙して構えを研究し、 庭では素振りを100本、木刀を手に一人稽古を重ねました。
また温泉に行ったときには、露天風呂の石に手をついて30回、腕立て伏せをしていました。
知らない人から見れば、かなり気味わるく映ったでしょうが、少しでも上をめざしたい気持ちが勝っていました。人目を気にしながらも、剣道に役立つことはすべてを取り入れる日々でした。

3回目の七段審査は、武道館でありました。
これまでの精進を信じ、ただ自分の剣道を思い切りつらぬくことだけを願っていました。審査は、おなじく昇段試験を受ける二名の方との立ち合いのなかで行われます。

一人目、二人目の立ち合いの初太刀は、思い切って面を打ちました。面は私の得意技で、それが有効打突(一本)になったのです。無駄打ちをしないよう心がけてはいましたが、実際にそれができたことに私自身が驚きました。そのあと、日本剣道形10本の審査が続 きました。

受審者1414名のなかで、合格者は200名に足りないという難関。しかも私は、故障などからくるブランクを抱え、年齢は57才に達していました。否定的な条件ばかりが重なるなかでの挑戦でした。
しかし審査発表は、なんと合格。まさに三度目の正直でした。信じられない気持ちでいっぱいで、実感が湧くにはかなりの時間がかかったのを覚えています。

七段審査会(日本武道館)。初太刀の一本目は面で攻める。(左が坂口さん)

息子夫婦と孫が応援にきてくれました。七段審査会場、日本武道館にて。



いまは、子どもたちの育成にも力を注いでいます。
故小田弘文先生の門下生として「ちくま剣道育成会」を引き継ぎ、師の教えである「直心(じきしん)」を継承しています。直心とは、要約すると「生まれたままの赤ちゃんのような素直な心」のことで、子どもたちが友を大切にし、未来に向かって立派な人になってほ しいとの願いが込められています。

        

子どもたちへの技術指導

        

ちくま剣道育成会、記念大会



私が剣道を通して得たものは、交剣知愛です。すなわち、「剣を交えて"おしむ"を知る」ことです。
愛はおしむ(惜別)、大切にして手離さないということを意味し、あの人ともう一度稽古や試合をしてみたいという気持ちになることです。剣道を通じて互いに理解しあい、人間的な向上をはかることを示唆した言葉で、そうした気分になれるように稽古や試合をしな さいという教えです。

振り返ってみると、若いころにはよく手足に豆ができ、針でその血豆をつぶしていました。小手の皮にいつのまにか穴が開き、それでもむき出しになった手で稽古をしていました。いまでは一切、豆はできません。手のひら全体が大きな豆になっているからです。この 手が、なにより自分の人生を語っているようです。
恩師や諸先生に導かれ、いつのときも一生懸命に修業に打ち込んできたことで、今の私があるのだと思います。
剣道は私の人生そのものであり、生きがいでした。そして、終わりのない私の道でもあります。


●リンク

更埴剣道連盟 http://www.koshoku-kendo.com/
ちくま剣道育成会 http://chikumakendo.naganoblog.jp/


坂口さんの剣道具

(Made in Japan)