わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第九回
追いつめられた男

  河内屋半四郎は苦しんでいた。
  酒を商いする問屋でありながら、近頃では己が酔うために酒を呑む。
  この夕べも、軒行燈[のきあんどん]に灯りが入る前から、南茅場町の煮売り屋に上がり込んでは、小座敷で頻繁に杯を重ねていた。
  この時代、まだ居酒屋はなかった。
  煮売り屋は仕事を求めて江戸にやってきた男たちの胃袋を満たすために、煮魚や煮豆、煮しめなど、そのまますぐに食べられるものを売る店だったが、近ごろでは店内に客を入れ、公然と酒を出す店が増えていた。
  町人たちが好む地廻り酒といえば、神田昌平橋外にある、内田屋清左衛門が醸す「宮[]川」が人気だ。地の者たちが、あたりの隅田川を宮戸川と呼びならわしてきたことで名づけられた、辛口で職人好みの酒だった。
  すこしでも酒が進むよう、亭主が醤油で濃く煮付けた大根は、盆の上でとうに冷めていた。小女は若い男客たちにかまけて、用でもなければ近寄りもしない。時々ちろっと見やるだけで、見て見ぬふりだ。
  河内屋は、笑いのない客だった。
  もう二年にもなろうかというのに、遠州灘沖の海難事故で受けた傷は[]える気配すらない。もとより自前の船ではなかったが、積荷の半分以上を河内屋の江戸店が買い付けた酒樽が占めていた。
  商いに余裕があれば、船主にいざというときの積荷の弁済を保証させることができた。しかしそうなると、廻漕賃が桁違いに跳ね上がってしまう。
  大きな[もう]けを[たくら]んでいた半四郎は、これを惜しんだ。
  江戸店で財を成し、本家の娘婿の座を利用して、義父から江戸店をそっくり譲ってもらおうとの算段だった。よって、廻漕費が膨れ上がることを嫌った。
  本来、新酒でもなければ、酒樽の輸送は一刻を争うものではない。
  船に揺られながら樽材の吉野杉と戯れ遊ばせることで、到着したころには、ほのかに杉の香を含んだまろやかな酒に仕上がってくれる。
  沖が荒れるようなら、船頭も無理な出航をしないのが常だった。
  ところが河内屋の荷を積んだ船は、早々に風待ち港を出て、難破した。
  賭けに負けた半四郎は、伊丹の本家に土下座をして謝った。ただの奉公人ではなかったことで、首の皮一枚つながった。
  向こう三年の間に、自分の手で江戸店を再興することが条件だった。こつこつ地道にやれば間に合う、との本家の温情だ。
  半四郎も一時はその気になった。
  ところが、いきなり歯車が狂いはじめた。
  酒をまわしてくれていた蔵元の態度が事故のあと、おかしくなった。そこは本家に意地を張ってみずから見つけてきた仕入れ先だったが、納入を渋った。
  江戸の河内屋さんは縁起がわるい。それが理由だった。
  半四郎がわざわざ本家とは別の蔵元と取引をはじめたのは、本家から押しつけられる酒に出来不出来の差が大きかったからだ。ひょっとして、出来のわるいものから江戸積みしているのではないかと、本気で義兄を疑ったほどだ。
  値が張るわりにうまくない、あからさまにそう口にする小売りもいた。

  一体おれが、どんなひどいことをしたのだ。
  たった一回、船の荷の[つい]えを惜しんだ。
それだけのことではないか。
  なのにどうして、ここまで追い詰められなきゃならないのか。
  河内屋半四郎の心は[すさ]んでいた。
  さっきまでぶつぶつ文句を繰り返していたが、いまは上がり座敷の隅に重ねられた座布団に突っ伏している。
  その前に、すうっと人が立った。
「大丈夫ですかい、旦那。河内屋の旦那じゃないですか」
  軽く肩を揺すったが、相手を見上げようともしない。
「ああ、そうですよ。わたしは河内屋の旦那だ。あと、しばらくの間は……」
  たしかに、当主の座にいられるのも、いましばらくのことかもしれない。
  客に喜んで買ってもらえる上質な酒が入ってこないうえ、融通してもらったわずかな量の酒でさえ思うように捌けないでいる。
だんだんと小売りの足が遠のいて、もはや問屋とも言えなくなってきている。
  年が明ければ、約束の三年目だ。
  大坂にいる女房はいそいそと、若い婿養子を迎え入れるだろう。
  職人ならばまだしも一人で喰っていけるだろうが、商人がこの歳で店を追い出されたら、まず生きていけるあてはない。
待っているのは、宮戸川の冷たい水だけだ。
  男がもう一度、肩を揺すった。
  半四郎がようやく反応した。
「おまえさんは、だれだい」
  おっくうそうに、頭を持ち上げた。
  相手を見ようとするが、目が泳いでいる。
「ときどき旦那をお見かけするもので、声をかけさせてもらいましたよ。
ええ、酒問屋の番頭をしております、儀助と申しやす」
「なんだい、よりにもよって、酒問屋だって」
  ようやく持ち上げた頭を、また座布団の山にもどした。
「ふん。酒なんぞはな、呑むもので売るものじゃないんだよ。よすがいい。おまえさんもいまのうちに、さっさと問屋商売から足を洗うことだね」
  しゃっと払おうとした細い腕を、男が眉根を寄せて受け止めた。
  盆からぐい飲みが飛び出して、座敷を駒のように踊ったら、すぐにこらきれなくなって固い土間に落ちた。
「ですが旦那。世の中はそうそう[]ねたもんじゃありませんぜ」
  儀助は、手に力を込めた。
  一拍おいて、半四郎の耳もとに[ささや]いた。
「旦那、いい話がありますんで。ようく聴いておくんなさいよ。上方にね、江戸の問屋を探している蔵元がありやしてね。またそこが、いい酒を造りますんでさあ」
  半四郎が、目をひん[]いた。
  河内屋の当主にもどったようだ。
  儀助と名乗る男の物言いは、およそ商家の番頭に不似合いなものだったが、そんなことは気にも留めていなかった。

  儀助に腕を支えられ、河内屋は店の入口へと[ころ]び出た。
  入れ替わりに職人の三人連れが入ってきて、ふらつく河内屋とぶつかった。
一人が文句を言おうとしたが、目の前にずいと儀助が乗り出した。
  なんでえ、と言ったきり、三人は黙って手前の床几[しょうぎ]におさまった。
  外は生ぬるい風が吹いている。
「ど、どこに連れて行く気だ」
  口と足は、まだもつれている。
「すぐ先の宿で、わたしどもの主が待っておりやす。さ、こちらへ」
「おまえさんの、主の名を教えてくれないか」
「へい、平岩屋徳右衛門で」

  日本橋川の下流に、まだ橋はなかった。
  向こう岸への往来は舟に頼るしかないから、江戸の主だった川沿いには多くの船宿が営まれている。
  めざす船宿「笹舟」は、まともならすぐに行き着く目と鼻の先にあった。
  新参の平岩屋が扱う地廻り酒の多くは関東の粗酒であり、気の利いた料理屋や料亭との付き合いは深くない。
  せいぜいが、こうした船宿だ。
  ままならぬ身体に難渋[なんじゅう]しながらも、河内屋半四郎は徐々に歩くことに慣れてきた。
  ようやくたどり着いた宿の玄関から見上げた階段の上で、わざわざ立ち上がってきた猪首の商人風が満面の笑みを浮かべて出迎えた。

  平岩屋徳右衛門が切り出した話は、こうだった。
  近年、京都の伏見あたりで醸造所が増えつづけている。
  なかに江戸での商いに興味を抱く蔵元が、二、三ある。
  ただし上方の醸造家たちにとって、遠隔地との金のやり取り、回漕による危険、万一のさいの誠実な約束の実行など、見ず知らずの江戸との商いについては心配の種があまりにも多く横たわっていた。
  それゆえ、あくまで上方に本家がある問屋に限って酒をまわしている現状がある。
  暖簾第一、信用第一の上方に、関東の平岩屋がいきなり買い付けに行っても、話はまとまらない。
  その点、酒造りでは伊丹[いたみ]に本家があり、上方の商慣習にも長けた河内屋さんに買い付けていただくなら、すべてがうまくいく。
なんと言っても、伊丹は京の先輩格にあたる。
  [もっと]もな話だった。
  仲居が酒を運んできたが、半四郎は白湯[さゆ]所望[しょもう]した。
  本気で話を聞こうとしている証拠だ。
「仕入れた酒の半分は、平岩屋で引き取らせてもらう。わたしたちも下り酒の商いをしてみたい。条件はそれだけですがね」
  がぶがぶ白湯を飲んだ河内屋に生気[せいき]がよみがえり、目が光りはじめた。
  一方で、まだなにかに逡巡[しゅんじゅん]している様子があった。
  なにもかもを承知している平岩屋は、すかさずそこを突いた。
「失礼な物言いなら[ゆる]してほしい。仮の話だが、河内屋さんのほうで仕入れの金が不足するなら、こちらでご用意しよう。なんの、用立てた分など、酒を売って儲けた金で返してくれればいい」
「それと……」
  いかにも親切よがしに平岩屋は付け足した。
「なにしろ持ち歩く金銀[かね][たか]が半端じゃない。いまどきはご公儀の御用金でさえ襲われるご時世だから、陸路は不用心に過ぎる。船で向かっていただこう。往来の用心に、こちらから二人ほど腕[]きの者を随行させてもいい」
  弁才船の難破以来、河内屋は灘屋に頼んで、一定量の下り酒を融通してもらってきた。
  ありがたいことであるが、自前で仕入れなければ利は薄い。尋常[じんじょう]なやり方をしていては、とてものこと期限内の再興は覚束[おぼつか]ない。
  江戸にいられず、上方にももどれなくなる日は、遠からず迫っていた。
  そんな絶望の淵へと追い込まれていた矢先、闇の向こうに、ぱっと明かりが点った。[おぼ]れる男は、躊躇[ちゅうちょ]なく目の前の[わら]に取りすがる。
  平岩屋は廻漕一回分の利を算盤の上に示しながら、二回ならこう、三回ならこうと、ぱちんぱちんと派手に[たま]をいじってみせた。
  そして最後に、こう付け加えることも忘れなかった。
「よそで言ってもらっては困るが、この平岩屋徳右衛門の後ろには、江戸のお奉行さまがついていてくださるのでね」
  またしても河内屋が目をひん剥いた。
  ばたばたと膝を進め、乱暴とも思えるような仕草で平岩屋の手を握りしめた。
  それだけではない。
  両の目からぽろぽろ涙をこぼしながら、[ぬぐ]いもせず、頭を下げはじめた。礼を言おうとしているようだが、言葉にならなかった。
  くずおれる河内屋の両手を単衣の裾で受け止めながら、平岩屋は儀助を見下ろした。
  肩をすくめてみせた儀助は、あざけりの笑いを隠さなかった。

  平岩屋は南町奉行所の内与力内村清十郎から、早々に下り酒問屋をわがほうに引き入れるよう、せっつかれていた。
  しかし下り酒問屋は、意外に結束が固い。
  上方の出先機関であるとはいえ、かれらには先駆けとして、はるばる江戸に乗り込んできた自負がある。
  これほどの大役はおまえでなければ務まらないと見込まれて、百二十余里の旅をしてきたのである。
  むざむざと負けては帰れない。
  それが赴任[ふにん]に際しての、自分自身と、そして故郷との約束だった。
  ところが来てみれば、水の流れ以外は、言葉も、慣習も、季節のめぐり方さえ、あらゆることが異なっていた。江戸に下ったみんなが、おなじ想いを抱きながら、ぎりぎりのところで踏んばっていたのだ。
  それゆえ、互いに負けまいとする気持の強さとは裏腹に、遠く故郷を想う気持でかれらは共通していた。いつしか同志のような、相手をいたわる心も生じていた。
  その固い結束を、いま平岩屋が強引にこじあけようとしていた。
  一時はすべてをあきらめた半四郎だった。が、船宿「笹舟」を出てきたときには、自分で提灯[ちょうちん]を下げ、一人でまっすぐに歩いていた。
  はて、他愛ないものよ……。
  向島の寮にいるはずの仲也が、酔っ払いのふりをして、ゆっくり河内屋の後ろを歩き出した。