わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第七回
平岩屋の正体

「すると、なんだね」
  忠三郎から報告を受けた筆頭番頭の丹蔵が、同心戌井謹之助の言葉をなぞった。
「呉服橋の奉行所にではなく、自分にだけ知らせるよう念を押した。そういうことだね」
「はい。それだけおっしゃいますと、あっという間に席を立たれまして。慌てて追いかけましたが、お召し物に触れることすら叶わず……」
「おそらくは金の匂いでも嗅ぎ取ったのだろう。初めから小銭など受け取る気はなかった、と考えていい。平岩屋がらみの株仲間設立の一件は、どっこいおれも心得ている。対応しだいでは灘屋、おまえたちを敵にまわす、ということか」
  味方についてやるから金をよこせ、というのが役人だ。裏を返せば、敵にまわすかもしれない相手からは金を受け取らないことになる。
  丹蔵は若い当主を振り返った。
「一つおなじ奉行所のなかでも、内与力と同心とでは、どうやら別の獲物を狙っているようですね。それに、わざわざ河内屋の名を明かしに来た。そこを探ってみろと。そのうえでこちらがどう出るか、ひとまず様子を見ようというわけですか」
  内与力と同心から放たれた別々の糸は、どこでどうつながるのか。
  市右衛門が軽く腕を組み、目を閉じようとしたとき、
「せ、清四郎さまが、おもどりになりましたあ」
  底抜けに明るい伍吉の声が、玄関先から奥の座敷にまで届いてきた。
  汗を拭い足もとを払い、すすぎを使って旅の汚れを落とす手代の清四郎を、ぽかんと口を開けたまま、伍吉はわくわくした表情で眺めている。
  清四郎を慕い、つねは仔犬のようにまとわりつく子どもの気持が、そのまま表に出ていた。
  清四郎はにっこりと伍吉に笑いかけ、あとでな、とすぐに奥へと向かった。

  夏の間、灘屋では奥座敷の床にくまなく網代の敷物を並べている。
  襖が取り払われた部屋の仕切りには両脇から細身のすだれが下げられ、空いた中央から、向こうの庭の緑が遠景となって見通せる。
  足もとは敷物でひんやりと心地よく、顔のあたりは涼しい風が通りぬけていく。京の町屋の夏座敷のような工夫があった。
  帳場を預かる二番番頭の忠三郎らを残して、主だった者が座敷に集まった。
  荷受け差配の米之助らも、屋号の染められた半纏に股引き姿で加わっていた。
  一同を見まわしてのち、丹蔵が市右衛門をうながした。
「ご苦労でした」
  まずは市右衛門が清四郎をねぎらった。
  清四郎が一歩前に進み出る。
  あらためて辞儀をしてのちに語った平岩屋徳右衛門の出自に関する調べは、ざっと次のようなものであった。

  徳右衛門こと徳造という男は、もともと房州は行徳に近い塩田で働いていた。
  たまたまかれの遠縁に、常陸国は府中に近い恋瀬川のほとりで、酒の蔵元をやっている平岩酒造があった。
  常陸の酒造りは古く、慶長八年(1603)頃に、奥久慈の山方あたりではじまっている。明暦のいま、江戸の地廻り酒の主な産地となっていたのはやはり常陸で、奥久慈からずっと南に下った、水戸街道は土浦の先の府中あたりである。
  よい水とよい米とに恵まれて酒造りが盛んで、下り酒を知らなかった連中からは関八州一と呼ばれて評判が高かった。
  ところが、この平岩酒造の女房が原因不明の病いに罹り、みるみる衰弱して呆気なくこの世を去った。
  一周忌を終えたばかりで徳造は、蔵元のもとへしっかり自分の娘おまさを後添えに入れた。生きる気力を失くしていた主は、若い嫁が来てくれたと素直に喜んだ。
  が、これがいけなかった。
  徳造は嫁がせるにあたり、乳母日傘で育てた、それもたった一人の大事な生娘だからと、結納代わりの法外な金を要求した。それを元手に房州から数名の悪仲間を送り込み、十七になったばかりの跡取り息子を強引に賭場や悪所に引きずりまわした。
  策はまんまと当たった。
  世間知らずの息子はすぐによからぬところから金を借りるようになり、返すことなくまた借りた。
  利息はみるみる膨らんで、たちまち在所に居られなくなって身を隠した。
  金は遊んだ分を差し引いて徳造の手に返ってきていた。減りはしたが、もともとは平岩酒造からふんだくった金だ。
  若い新妻おまさは、亭主とろくろく閨を共にしないにもかかわらず、身ごもったようだとうそぶいて、さっさと郷へ帰った。
  いよいよ徳造の出番となった。
  前妻と跡取りと新妻までを相次いで失った亭主を、徳造は気鬱と称して奥に閉じこめ、沽券をいいように細工した。うるさい縁者たちには、いずれ息子が改心して帰ってくるまでとの口実で、やすやすと酒造家の実権を手に入れたのだ。
  徳造にとって幸運だったのは、蔵のなか大箪笥に予想外の大金が隠されていたことだ。
  すぐに徳造は江戸に地廻り酒の問屋を開き、堂々と、
「常陸府中 平岩屋」
  の看板を掲げた。
  同時に名を、平岩屋徳右衛門とあらためた。

「よく調べあげましたな、清四郎」
  丹蔵が一同を代表して、労をねぎらった。
「ありがとう存じます。常陸に到着しまして、まずは元の平岩酒造で働いていた杜氏や蔵人、それに女中たちを探しました。幸いにも大半の者が、いまも醸造所の近くに住んでおりました。ですので、最初の一人に突き当たると、あとはもう……先々代から忠勤に励んでいた以前の奉公人たちは、だれもが徳造にきつい恨みを抱いておりまして、案外なことに我先にと向こうから一部始終を打ち明けてくれましたような次第で……」
  さすがに清四郎だと、何人かから声が上がった。
「ですが……話はまだ終わりじゃございません」
  一同が、清四郎を凝視した。
「徳右衛門となった徳蔵は、すでに次を仕組んでおりました」
  勢いのままに駆け上がろうと、徳右衛門は手の者を使って江戸の浅草や本郷、茅場町や霊岸島新堀川筋に散らばる酒問屋や小売酒屋の内証を徹底的に調べ上げさせた。
  うまい具合に標的が見つかった。
  かれはふたたび、おまさを生娘に仕立てあげた。
「なんとのう」
  座敷に驚きの声が洩れた。
  平岩屋は関八州一と称される常陸の有力蔵元の立場を利用して、たてつづけに酒の品評会のようなものを開いて、せっせと江戸の地廻り酒問屋と小売酒屋をもてなした。
  そのさい、おまさを遠縁から預かっている娘と偽り、ことあるごとに同席させることを忘れなかった。
  商いのいろはと行儀作法の見習いという触れ込みだが、男好きするおまさに興味を示す好色な商売仲間はいくらもいた。
  おまさは宴席で、世間知らずの生娘を演じた。
  なにを見せられても、むっちりした肢体をくねらせて、
「あら、こんなのはじめて」
  おなじ台詞を連発し、色白の下ぶくれの頬に、甘ったるい声を重ねた。
  気のありそうな男にはじっと見つめておいて、相手が気づくと、はっとしてあわてて視線を外すことも怠らなかった。
  見つめられて、膝をせり出す男は多かった。
  徳右衛門はおまさを近づけては遠ざけることを繰り返し、男どもの競争心をあおった。
  そんな一人に、肺を病んだ妻を抱えた伊勢屋小一郎という男がいた。
  病人のいる家のなかは湿りがちだ。
  小売りではないが、芳醇な香りで人を呼ぶはずの酒問屋に、咳をする音と煎じ薬の匂いが立ち籠めた。
  訪れる客は減り、細る一方の商いのなかで、伊勢屋はほかの連中におまさを取られてたまるかと、無理を重ねた。
  小心者のわりにはやることが大胆で、子もなかったから、病気の女房をとうとう郷へと帰してしまったのである。
  ここに至って、奉公人たちの忠誠心は一気に霧散した。
  おまさとは身内だけの祝言は挙げたものの、十日もたたぬうちから、
「いやだいやだ。病人が臥せっていた部屋は、息がつまるよ」
「おまえさん、これも捨てておくれよ。病いがうつるじゃないか」
  性悪女の本性をあらわにして、たちまち家に居つかなくなった。
  あまりの豹変ぶりに癇癪をおこした伊勢屋は、下絵図を描いた張本人とも知らず平岩屋徳右衛門に談じこんだことで、藪から蛇を追い出してしまった。
  返ってきた答が、平岩屋に雇われた無頼の男たちの作り話だった。
「可哀想によう、おめえが追ん出した先の女房は、在所に帰ってすぐに患いが嵩じておっ死んじまったぜ」
「いくら子が産めなかったからってよう、殺すこたあねえだろう」
「殺したのはてめえだ。どうでえ、出るところに出ようじゃねえか」
  脅しは、朝起きてから夜眠りにつくまで、間断なく繰り返された。息つく暇を与えぬことで、数知れぬ男たちを追い落としてきた連中だ。
  縮みあがった伊勢屋は、五日五晩揺さぶられた末に、一札まで取られて店から放り出された。
  徳右衛門はすぐに娘のおまさを呼びもどして伊勢屋の女主人に据え、幾人かの奉公人を懐柔して屋号をあらためさせた。
「ほう」
「房州の塩田で雇われていた男が、わずか数年で、蔵元と二つの問屋の主ですか」
  手代頭の孫次郎が呆れかえった。
「で、娘のおまさというのが、いまの常陸屋の女将というわけです」
「…………」
  清四郎の言葉に、静まりかえった。
「なんと平岩屋と常陸屋は、じつの父娘だったか」
  あの折り……。
  夜明けの稲荷社からもどる道すがらの光景が、丹蔵によみがえった。
  若い女主人が切り盛りする店から、あの時刻に別の店主が出てくるのはかなり不自然なことだった。

  報告を聞き終えて、市右衛門はいつものように目をつむった。
  平岩屋は悪知恵に長けた男だ。
  ただ侮れないと思うのは、人が踏みとどまる一線をかれは平気で踏み越えている。
  絶望の淵に立つ男たちを、崖下に蹴落とすことにたじろぎもしない。
  しかもここまで、計画のすべてを成功させていた。
  幼いころに親に捨てられ、悲運の果てに仕方なく悪の道にたどりついた大勢の男たちとは違う。いまだ怖れを知らぬ者の怖さがある。
  計算できないのは、そこだ。
  いま一つ、気がかりがあった。
  清四郎が調べあげてきたとおり、平岩屋が房州の塩田の使用人からのし上がった男だとすれば、偶然に奉行所とつながったとは到底思えない。かならず、橋渡しをした者がいる。そいつはだれか。
  まだまだ見えていないことが多すぎる。
  それにしても……。
  江戸で商いを成功させるのは、かんたんではない。
    下り酒問屋であっても、みんながうまくいっているわけではないのだ。問屋のなかには、利害に直面すれば、濁り水と知りつつ呑み込もうとする輩が出てくるに違いない。
  平岩屋が次に狙うのは、どの酒問屋か……。
「!」
  このとき、市右衛門の頭のなかが弾けた。
  そうだ。
  それが、河内屋だ。
  同心がわざわざ言い置いていった名前が浮かんだ。ひらめきは、確信に変わった。
  それにしても厄介なのは、背景に南町奉行の影があり、内与力の内村清十郎が後ろ盾となっていることだ。
  忘れてならない男が、奉行所にもう一人。
  禿げ鷹の目をした同心、戌井謹之助がいる。
  上方からの弁才船が沈没して以来、河内屋という堰がとうに崩れかかっているのは承知している。そこに、あらたな別の濁流が襲いかかろうとしている。
  放っておいていいわけがない。伊丹屋宗助以下、下り酒問屋の命運がかかっていた。
  急がねばならない。
  だれが適任かと想いをめぐらしたとき、まっ先に灘屋の向島の寮にいる才蔵たちの顔が浮かんだ。
  と、丹蔵が、さりげなく市右衛門の同意を求めるように向き直った。
「向島につなぎをとって、河内屋を護らせますか」
  先を越されて、市右衛門の端正な顔がゆるんだ。