わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第五回
犬の嗅覚

  あいかわらず小さな波が、石垣を洗っている。
  船宿に川音は付きものだ。
  平岩屋の困惑にかまわず、顎をしゃくりあげて内村清十郎が静寂を破った。
「二年前に、上方からの船が難破した、下り酒の問屋があったろう」
「河内屋でございますね」
「あれ以来どうにもならなくなって、内証はかなり苦しいと聞く。目の前に餌をぶら下げれば、すぐにも喰いついてくる。奴は上方の本家の、親戚筋にあたる男だ。江戸店さえうまく落とせれば、向こうも話に乗ってくるだろう」
  酔い醒ましのために、二階の窓は開け放たれている。
  声をひそめているつもりでも、酔いが内村の感覚を麻痺させていた。
  このとき、窓下に近寄って、じっと聞き耳を立てている男がいた。
  濃紺無地の着流しに、茶の献上帯。
  ひと目でそれとわかる髷は、小銀杏だ。みずから進んで町廻りを買って出る奉行所同心が考え出した、町人に変装しやすいがための髷だった。
  邪魔するものは、小さな波音しかない。
  同心戌井謹之助はなま暖かい川風に吹かれながら、悠然と顎をさすっていた。
  柳橋の上を歩いていて、偶然にも下船しようする内村たちを認めた。内与力の相手は商人だ。
  妙な取り合わせだと思ったが、すぐにいぶかしい思いが膨らんだ。連れ歩いていた手下を乱暴に手で追い返し、目で追いかけていたら、人目をはばかるように二人はそのまま船宿に入っていき、すぐに二階に明かりが点った。
  内与力の甲高い声は聴き知っている。
  慣れても、好きになれない声だ。
  腕を組んだまま二階を見上げて、戌井はにんまりとほくそ笑んだ。
  南町奉行の懐刀である内与力の一人を、おなじ南町奉行所の同心が付けまわす、奇妙な構図が浮かび上がった
「平岩屋か、それとも河内屋か。さあて、どっちから搾り取るか」
  戌井は思いがけず、金脈を探し当てたようだった。

  一般に奉行所の与力の報酬は、上下はあるが、均すとおよそ二百石取りの旗本にあたる。
  諸大名家や富裕な商家からの付け届けが多く、内証は豊かなほうだ。
  だが、代々の与力と違って、内与力は公儀直属の幕臣ではない。奉行が自前で抱える私的な家臣であり、ときに又者、又家来と蔑まれる陪臣だ。
  大いに出世をしたところで、神尾家の家老か用人で行き止まりとなる。それどころか、誤って主人の逆鱗に触れれば、たちどころに浪人暮しが待っている。先々の暮らしを思えば、頼れるものは金だった。
「内与力も、やるじゃねえか」
  同心の戌井謹之助が見たところ、平岩屋はここまで内村にかなりの金を遣っているに違いなかった。
  同心は与力の部下であり、俸給は遥かに少ない。たかだか三十俵である。石高にして十二石だから、一石一両として金に換えれば、年にわずか十二両である。
  悔しいが、腕のいい大工にも劣る。
  だからというわけでもないが、戌井謹之助は外廻りを望んだ。ろくでもない男たちに頭を下げるのが、無性に嫌だったからだ。
  徳川政権樹立からわずか五十年ほどのこの時代には、専門職としての「定町廻り同心」はまだ確立されていない。
  勝手に市中を出歩く戌井を指して苦言を呈した部下を、しかし奉行は一蹴した。
「わからぬか。あやつのよいところは、人を好きにならず、また人から好かれたいとも思っていないことだ」
  外を嗅ぎまわるのに、奴は向いている。黙って好きに歩かせておけと、そう諭したことがある。
  実際のところ、同心たちが交互に市中を見廻るにしろ、江戸の人口が増えて町が拡大していくほどに、人手が追いつかなくなっていた。
    背景には、奉行所が火災と犯罪の多さに頭を抱えていたことがある。
  道端に材木が無造作に積み上げられていたり、冬場に隠れてご法度である焚火をする連中があとを絶たない。
  それに、地方から寄り集まってきた大勢の人間が暮らす江戸は、慣習の違いもあって、武家と町人とにかかわらず双方に諍いが絶えなかった。それでいて、当事者たちが怖れながらと訴え出てくれることはまずない。
  火災を防ぎ、治安を守るには、奉行所みずから市中に出まわって説諭し、ときに取り締まり、いささかでも事前に不審な芽を摘んでおくことが求められていた。
  内勤が嫌で、自分から外歩きを買って出た戌井に、同輩たちは手を叩いて喜んだ。
  目障りな男に煩わされずに済むし、ことさら寒い日など、だれだって火のそばで算盤や帳面をいじくっているほうがらくだったからだ。
  逆に戌井にしてみれば、町廻りを任されたおかげでなおのこと自由になり、適当に言い繕って朝寝はできるし、大っぴらに朝から湯屋に出入りもできる。
    おまけに驚いたことには、諸藩や旗本家は言うに及ばず、商家からも盆暮れに付け届けが来るようになった。家臣や奉公人が事件を起こしたさいに、当主に害が及ばぬよう奉行所で内々に処理をしてやる見返りなのだが、この余得が馬鹿にならない。
  いまはおなじ江戸市中に暮らしているとはいえ、つい先頃の関ヶ原の合戦までは、敵と味方に分かれて睨みあったり殺しあったりしていた連中がほとんどなのだ。
  一旦は胸にしまわれた恨みや憎しみだが、水を向けられれば、いつでもかんたんに表へと飛び出してくる。
「まだまだやりようはあるぜ」
  戌井の嗅覚が戌井にそう教えていた。
  大っぴらには言えないが、限られた収入以外は望めない内勤者と比べれば、そこそこ恵まれた暮らしになった。ただ、まとまった金を掴もうとすれば、やはり自分で金鉱を見つけ出さなければならない。
  総じて奉行所役人には、商人たちからあからさまに賄賂を求める体質があったが、戌井の生き方はとくに顕著だった。

「どうぞ、お奉行さまによしなに」
  衣擦れの音が降ってきて、戌井はすぐさま窓下を離れた。
  足もとに潜んでいた小蟹もつられて、あわてて石積みの上を蟹歩きした。