わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、
連載時代小説。

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第三十回
舞い降りたもの

  江戸の御府内は、まだ深い傷を宿している。
  年が明けてすぐ未曾有[みぞう]の大火が襲い、ほぼ市中の半分が焼け落ちた。気味がわるいほど、ごっそり人が消えた。犬も馬も鶏も消えた。
  それでも人は、かすかな望みに[すが]りつく。
  うちの亭主は、きっとどこかで生きている。
  女房と子だけは、うまく逃げてくれているかもしれない。
  見渡すかぎりの絶望的な光景を前に、自身は抜け殻となりながらも、人は一[]の望みを捨てない。
  だから、どうにか今日一日も生き抜いて、ぜひにも明日を迎えなければならない。
  必死に生きるための算段をして、その、ほんの束の間だけは泣くことを忘れられる。が、夕暮れになると哀しみはまたすぐにもどってくる。これから何年、何十年と経とうが、それはいつもふいにやってくることだろう。

  雪が掃き寄せられた道端に、またあらたな人間が倒れていく。
  そんなときでも、死人にかまうことなく、さっさと動き出す者もいた。
  雪が止んでまもなく、かつて家やお店があった地に早々と家人や奉公人らがやってきて、浮浪者を追い払い、土を[なら]し、周囲に杭を打ち、縄を張って地を囲った。
  一人がはじめると、周囲にいた者たちも本性を剥き出しにした。商人の礼儀や作法などはかなぐり捨てて、多くが我先にと競って杭を打った。
  そのうちに遅れてもどってきた者との間で、境界線をめぐり、身も世もない諍いがはじまる。所有者がもどらぬ地は必定、だれかのものになった。
  公儀は災害に強い町をつくるため、道路を拡張し、各所に火除け地を設けることとした。元の土地を奪われても、裕福な者たちはしっかり手を回して、もっといい土地を手に入れることができた。
  火災が多い江戸の町の、とりわけ富裕な商人たちは、いざというときのために、そっくりおなじ店をもう一軒建てられるだけの材木を安全なところに預けていた。だから、かれらの復興は驚くほど早い。
  腕のいい大工や左官はとくに奪い合いで、医師や僧侶たちも稼ぎに大忙しだった。
  平穏な日々は、貧しい者にほど遅れてやってくるのだ。

    まもなく、問屋仲間が結束して河内屋の危急を救い、下り酒問屋の崩壊を食い止めてから一年が経とうとしていた。
それでも江戸に暮らす者の大半は、まだ酒を味わうどころではなかった。
  したがって酒問屋は、どこも休眠状態がつづいていた。どこも自分の店の建て直しに必死だった。
  灘屋でも、丹蔵以下の全員が汗を掻いていた。
  この地で商いをさせてもらっているのだから、近くに立ち上がれない人がいればまっ先に手を差し伸べよと、当主と筆頭番頭からきつく言われていた。
  そんな折りだった。
「平岩屋がまたぞろ、きな臭い動きを見せております」
  うんざりするような報告が、向島寮の仲也によってもたらされた。
  あるいは良からぬ奴ほど、多く生き残ったのかもしれない。
  株仲間創設は成ったが、その中身は平岩屋が意図したものとは似ても似つかぬものとなった。おそらくは歯噛みして悔しがったことだろう。
  しばらく静かな期間があったが、それは雌伏[しふく]のときだったのかもしれない。連中が勝算のあるあらたな策をもって、またぞろ動きはじめたとしても不思議はなかった。
  仲也がつづけた。
「じつはここに来て平岩屋が、こう周囲に言い触らしております。番頭の儀助とは絶縁した。向後は平岩屋とはなんの関わりもない。一人で勝手なことをしたから、さっさと放り出したのだと。そのことを問屋  仲間をはじめ奉行所の下級役人たちにも、ことさらに告げ告げてまわっておりまして」
  手が空かない時期だけに、腹立たしい[しら]せではあった。
「いまごろになって、わざわざそれを声高に言いつのるのは妙だ。なにかのための地ならしでしょうか」
  清四郎が首を[かし]げた。
「裏を返せば、これから儀助を動かす、との意味にも受け取れよう」
  丹蔵が応じた。
「そのようです。じつは、縁が切れたはずの当の儀助が、三日前にもこっそり平岩屋を訪ねております。あとを追いますと、渡し船を使って本所に向かいました。闇の男たちが潜み暮らす三笹町あたりに居座り、無頼の者どもを集めております」
「あらたな手勢で勝負を仕掛けよう、ということですか」
  若い当主の問いに、仲也がうなずいた。
「こんどばかりは、はっきり灘屋に狙いを定めております。市右衛門さまはじめ皆々さまには、念のため、くれぐれもご油断なきよう……」
  敵は本気で危ない橋を渡る覚悟でいるのだろう。
  当主が標的にされる可能性は高い。
  その夜灘屋では、奥の蔵座敷に主だった者が集められた。
  遅くまで意見が交わされたが、今日の今日とて、平岩屋の企ての輪郭はなかなか見えてこなかった。
  想像のなかから出てくる考えは、いい結果をもたらさない。確信を持てぬまま走り出すのは過ちのもとだ。
  丹蔵は早々に評議を打ち切った。
  敵は寄せ集めの集団である。徹底して洗えば、かならずどこかでぼろを出す。それだった。
  まもなく清四郎は平岩屋の人の出入りを、仲也は儀助らの行動を探るために灘屋から散っていった。

  その夜、丹蔵はめずらしく長い夢を見た。
  目覚めると、体中が汗ばんでいた。とうに忘れ去っていたはずの過去の情景がまざまざとよみがえり、あらためて強く脳裏に刻まれた。
  丹蔵は夢のなかで、亡き父と対面していた。父の後ろに、いるわけもない曽祖父が坐していた。
  京は東山の懐かしい閑居の一室は、福嶋家改易のあと各藩の招きを断った曽祖父、福嶋丹波守が余生を過ごした場所であった。
  父の父、丹蔵の曽祖父は若いころより主人福嶋正則に仕え、数多[あまた]の戦場を駆け巡ってきた歴戦の[つわもの]だった。世に名高い福嶋家主従の強固なつながりは、もとより生死をかけてともに戦ったことから培われたものだが、かならずしもそれのみで形づくられたものでもなかった。
  貧しい身上から[]しあがった主君正則には、ぐいとひと睨みするだけで相手を怯ませる仁王のごとき迫力とともに、大大名となってもなお、救いがたいほど子どもじみた愛嬌が備わっていた。太  閤秀吉と北の政所に深く愛され、頼りにされたところでもある。
  世間では型破りの直情型だと誤解もされているが、正味の正則は亡くなった家来のために人目もはばからず号泣し、悲しみに幾日も喰えず眠れず、げっそり痩せ細ってしまうような主人でああった。
  だからこそ家臣たちは、広島城を明け渡せとの本来なら震えあがる公儀の命令に対しても、主人正則の[めい]なくば弓矢を持ってお相手致すと、四千数百人のほぼ全員が籠城覚悟で幕府方と対峙した。
  そのとき所用で城下を離れ、登城の触れを知らずに遅参した二人の家臣がいた。
  城に向かって大音声[おんじょう]を張り上げて懇願したが、すでに大門は堅く閉ざされて何びとたりとも入城は赦されない。一人は悄然と肩を落として去り、もう一人は口惜しさに濠端で城に向かい、腹を掻き切って果てた。
  福嶋主従の結びつきの激しさは、類を見ない。

  昨夜の夢の余韻は、丹蔵のなかでまだつづいている。
  いにしえに丹蔵が何度も聞かされてきた場面がよみがえる。
  遠い日のこと、野に下った丹波守が嫡子に告げた。
「もはや正則公はおわさぬ。お家は消滅したも同然だが、愛すべきそのお血筋はこののちも綿々とつづいていく。折り入ってそなたに[たの]みたい」
  そう言って、頭を下げた。
「恃む者はもう、そなたしかおらぬ」
  丹波守の長男、福島長門は大坂の陣の折り、藤堂軍との激戦のなかで敗死していた。
  代わって家督相続人となった次男もまた、不自由な脚を引きずる父を誇りとして生きてきたから、亡き兄に代わって果たすべき己が役目が、五体に沁みわたっていた。
  丹波守はさらに言葉を継いだ。
「そなたの子の、だれでもよい。なかで一名、よき者を選んでわれより三代、こののちもわが主家の頭領をしかとお守りしてほしい」
  もとより子は、その覚悟だった。
「わしの想いで、そなたらの一生を拘束することは申しわけないとも思うが……」
「……父上、そのような遠慮はご無用に願います。想いはおなじでござれば、三代でも四代でも、われらのいのちあるかぎり、かならずやお守り通してごらんに入れます」
  曽祖父、祖父、そして父。
  三代にわたった血の約束は、丹蔵の父の代にてひとまずは終えた。
  先祖はその後の丹蔵らには自由を与えたのだ。が、当の丹蔵は、先の三代たちといささかも変わらぬ気持を抱えて生きてきた。

  浅い眠りのあと市右衛門は、霊岸島の先端にあるいつもの稲荷社へと一人で歩き出していた。そうなさるに違いないと、間をおかず丹蔵が出た。
  空はまだかすかに青みを感じるていどの、深い闇のなかに沈んでいた。通いなれた道筋ゆえ、両人とも明かりは用意していない。
  丹蔵はいくぶん下がってついていく。ふいに襲われたとき、互いの動きが交錯しない距離にある。
  市右衛門が振り返った。
  筆頭番頭の目が、今朝は赤い。
  ここ数日待ったが、はかばかしい進展はなかった。
  ところが昨夜遅くなって、現場に張り込む清四郎の使いが、敵方の動きが慌ただしくなっているとの報告がもたらされた。
  日一日と、その日が迫ってきているのは間違いなかった。
  島の先端に出た。
  空は、急速に明けていく。いまは一片の雲すら見当たらない。
  心に屈託さえなければ、見事に晴れわたった爽快な小春日の朝を迎えられそうだった。
  道中、二人はずっと神経を集中させていた。
  敵はなにをしようとしているのか。
  張り込みをつづけさせてはいるが、これという報せはまだない。いまだ雲をつかむに似たところがあるものの、もうすぐ、きっと見破れる。
  市右衛門は物心がついたころから、求める答が向こうから近づいてくるにつれ、自分でそれと感じてしまう鋭敏な感覚を持ち合せていた。
  昨晩は沈黙していたその感覚が、今朝は、もうすぐ[かい]が訪れるだろうと言っていた。
  そろそろ考えを絞り込むときだった。

  先日来、何度もたどってきた道筋だが、気を集中させながら、あらためて要点をなぞる。自分が平岩屋の立場なら、灘屋のどこをどう攻めるだろうか。
  たとえば、火付けだ。
  しかし灘屋は、さまざまな問屋が軒を連ねる通りにある。灘屋だけがうまく燃えてくれればいいが、大火事になって自分の店が燃え尽きることもある。よしんば火付けの身許が発覚すれば、拷問にかけられ、関係者全員が火炙りの刑をまぬがれない。
  第一に、明暦の大火のあと、公儀による市中の警戒網は一段と厳しくなっていた。出火元である本郷の火は過失としても、翌日に起きた小石川と麹町の出火は、公儀にあらがう不平分子たちが騒ぎに乗じて火を付けたものと考えられている。
  では、押し込んでくるか。
  火付けに対する警戒だけでなく、公儀は不審者の移動にもとりわけ神経質になっている。集団で一斉に行動することは、目立ちすぎるのだ。日本橋に近い江戸の新堀川筋で、徒党を組んだ派手な攻撃を仕掛けることは、あり得ない。
  ならば、おなじ時刻に数ヶ所に分散させ、同時一斉攻撃を仕掛けてくることも考えられた。ただし、標的がない。向島の寮などの存在がかれらに気づかれているとの気配は、まったく感じられない。
  あたりは一面の田んぼで、姿を見られずに忍び寄ることは容易でない。それになにより、少しでも異変があれば、あの才蔵らが気づかぬわけがない。
  それはかならず、灘屋の致命傷となるものでなければならない。
  隙があるとすれば、夜。
  移動は、船。
  そして、江戸市中から外れたところ。
  市右衛門は遠くを見やった。
  周囲にだけ注意を払っていると、かえって見えなくなることがあるからだ。
  やや明るみを増した空のおかげで、視界の向こうに、品川沖に停泊する弁才船の帆柱がいくつか見えた。
  刹那、市右衛門の頭のなかで、ぱちんと音が弾けた。
  海の上。
  そうだ、解は海の上にある……。
  たちまち脳裡に、一本の糸が[つむ]ぎ出されていく。

「丹蔵さん、海福丸はいつ出航しますか」
「風がよければ、四日後です」
  市右衛門のうなずきに、丹蔵が一瞬にして悟った。
  船乗り同士が[おか]で酒を飲みながら、寄港地の情報や互いの航海の予定を言い交わすのは日常茶飯のことだ。
「それだ! 奴らの狙いは」
「まさしく」
  闇夜の品川沖で、灘屋の樽廻船を襲う。
  連中が動くとすれば、今夜から三日後の晩にかけてである。それも、上方に送り返す荷を積み終えてからのほうが、灘屋の打撃は大きい。
  今日よりも明日、明日よりも明後日、出航まぎわの攻撃が濃厚と思われた。
「明夜だといくぶん厳しいが、なに、それだって防げないことはありません。明後日以降なら充分に立ち向かえましょう」

  早急に考えをまとめ、あらゆる手配りを済ませなければならない。念のため、船頭たちに近づいてきた者たちのことも確かめておかなければならない。
  なすべきことは多い。
  が、まだ参拝が済んでいなかった。
  ひらめきは突然に舞い降りたが、それは稲荷社のおかげとも言える。二人は[]くことなく鳥居の前で一礼をし、ゆっくりとした歩様でお稲荷さまの参道を進んだ。
  神様が通る道、正中と呼ばれるまん中をあけて、石畳の端を歩く。
  手と口を清め、静かに賽銭[さいせん]を供し、鈴を鳴らして二礼二拍手、謝意を述べて最後に一礼した。

  元の道をたどりはじめたとき、丹蔵が口を開いた。
「そうそう、うちの[]の花がね、こんなことを申しておりましたよ」
  頭の霧が晴れ、道すがら、父と子がのんびりと孫娘のことを語り合うような、おだやかな光景がよみがえった。
  あのお千代の申すことですから、と丹蔵は断った。
「人には銘々[めいめい]に、欲深[よくぶか]なところがある。その証拠に、神社に[もう]でると、あれもこれもと一人でいくつもの願いごとを置いていく。入れ替わり立ち替わり人が訪れる評判のお社では、いくら神様でも、最初の数人でその日のお願いごとを仕舞っておく袋のなかがいっぱいになってしまうそうです」
  少女の、他愛もない話だった。
  卯の花ちゃんとか、卯の花さんとか呼ばれて可愛がられているお千代は九歳のときに縁があって行儀見習いにきた。まだ十二歳になったばかりで、まだまだ半分は子どもなのだが、しょっちゅう大人の会話に首を突っ込んでは、奉公人たちのさわやかな笑いを誘っていた。
  市右衛門の脳裏に、赤い[たすき]を掛けておきつねさまに祈る、うさぎの姿が浮かんだ。
  そう言えば大火のあと、小さく華奢[きゃしゃ]な身体で怪我人の間を飛び回った動きの無駄のなさは、大人顔負けのものだった。
  丹蔵がつづけた。
「で、この話にはまだつづきがありましてね」
「聴きたいですね」
市右衛門は待った。
  通りにはそろそろ丁稚たちが、店開きの支度に[ほうき]をもって出てきていた。お千代や伍吉たちとさほど歳の違わぬ、小僧さんたちだ。
  もうすぐ新堀川に幾艘ものはしけが上ってきて、大勢の人足が河岸道を挟んで船と店とを行き来する。
  大火以来、酒の荷は減ったままだったが、このところはいくらかでも、以前のような活況を呈するようになっていた。
「その点、旦那さまがお参りなさるお稲荷さまは、ご近所の方々だって足を向けようとなさらないほど小さなお[やしろ]。だから神様はちっとも忙しくない。そのうえ旦那さまは明け方一番の、まっさらにお清めされたところにお参りをされる。だからお稲荷さまも、旦那さまのお願いごとだけは真剣に聞き届けられるはず。灘屋は、この先も安泰だと」
  あのお千代が、灘屋の行く末を請け合ってくれましたよ、と丹蔵は結んだ。
  脳裏に浮かんだうさぎが、小さな前歯をのぞかせ、両手を前に、市右衛門の前をぴょんと跳ねた。
  朝日が二人の背に射しかけてきた。
「なによりの吉兆です」
  市右衛門から屈託が消えていた。