わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第二十回
父代わり

  やや離れたところから、剣術の稽古をする声と音とが洩れてきた。
「おう、元気な声がする」
  阿部忠秋が、つと膝を動かせた。
  ここは毛利藩の上屋敷である。
  老中を前にした藩主毛利秀就に、このときふと、いたずら心が芽生えた。
  阿部に話しかける。
世上[せじょう]に噂されているところによれば、御前は無類の子ども好きとて、市中の捨て子たちをたくさん引き取り、[]ずから育てておられると聞き及んでおります。ご老中とは申せ、余人にできることではござりますまい」
「お恥ずかしいが、それもこれも、[まつりごと]が行き届かぬところが多々あれば」
「まさかに、そのような……いかがですかな、当家の子どもたちをご覧になられますかな」
  阿部忠秋は根っからの子ども好きだ。笑顔でうなずいた。
  隅に控えていた用人が去ってしばらくすると、木刀を手に稽古着姿の子どもたち四、五人が庭先にあらわれて[ひざまづ]いた。
  秀就は立ち上がり、
「こちらにおられる御前は阿部豊後守さまだが、無礼はお許しいただくとして、そのほうたちはそこで、いままでしていた稽古をつづけるがよい」
  阿部は無意識のうちに膝を進めた。
  目を細めて乗り出すように眺めているうちに、なかに十一、二歳くらいであろうか、額の美しい、際だって[りん]とした少年に興味が湧いた。膂力[りよりょく]はまだ乏しいが、背筋がまっすぐに伸び、力まかせに押し込まれても容易に体勢が崩れない。
  秀就の縁戚か、あるいは重臣の子弟ででもあろうか。
「いつぞや御前は、昔話の徒然[つれづれ]に、福嶋なくして徳川なし、と仰せられましたな。そんな豊後守さまゆえ、正直に申しあげましょう」
  危険をはらんだ秀就の遊びであった。
「あの少年の名は、福嶋市之丞[いちのじょう]と申します」
「はて、どこやらで耳にしたことがあるような名にも聴こえるが」
  立ち居振る舞いが、気持よい。太刀筋が流麗で、鋭い。それでいて、どこにも慢心した様子がない。
  先程来の話題をつなぎあわせるうち、
「もしや……」
  老中が、はたと膝を打った。
  すかさず秀就が、首肯[しゅこう]した。
  秀就は腹を括って、語り出した。

  毛利家は福嶋正則への恩を忘れなかった。
  幕閣に反対意見が根づよく、一度は福嶋家改易を引っ込めた二代将軍秀忠だったが、そのあくなき執念によって元和五(1619)年七月、ついに福嶋家の四十九万八千二百十三石(検地後の実高、五十一万五千八百石)を奪い取った。さらに三年ののち、宿怨[しゅくえん]の幕臣本田正純も一掃する。
  秀忠は、家康存命中には忠実な息子を演じ切り、将軍を継承するや腹の底深くに眠らせてきた遺恨を晴らしにかかった、執拗にしてじつに陰険な男であった。
  こんな逸話がある。
  関ヶ原の合戦のあと、正則の家老であり侍大将を任ずる福島丹波守治重、尾関石見守正勝、長尾隼人正の重臣三人が、打ち揃って家康に拝謁し盃を下された。
  このとき家康の近習たちがひそひそと小声でささやきながら笑った。福島丹波守は片足を引きずり、尾関石見守は片目を失い、長尾隼人正は言葉を失っていた。
  謁見のあと家康は三人を「世に勝れたる大豪の者たちよ」と讃え、失笑を洩らした近習たちをきつくたしなめた。
  三人の重臣がそろいもそろって障害をもってなお堂々としているのは、主君正則の剛直な気風そのものであり、福嶋家臣団の武辺の性格を物語っていたからだ。
  しかし人を見る秀忠の器量は、父に遠く及ばない。
  もはや恐れるものはなにもないはずなのに、秀忠はこの期に及んでも福嶋の亡霊を恐れていた。江戸にあっては少数の供回りしかいない愛宕下の福島屋敷を鉄砲と大軍とで取り囲み、主不在の広島城を幾万もの大軍で包囲して、広島城の明け渡しを迫ったのである。
  果たして筆頭家老の福嶋丹波守治重[はるしげ]は、
「本城は主正則より預かりしもの、主命なくば一戦も辞さず」
  と言い放ち、一歩も譲らなかった。
  江戸へ急使が立ち、愛宕下で拘束される正則家族の無事を確認したのち、丹波守は主の書状を受け取り、ついにその命を受け入れた。
  広島城はもとより家臣の屋敷のすべてを粛々と清掃し、城内には検視役が点検しやすいように武器や道具、弾薬、穀類などを配置し、明細を綴った。
  また家臣全員の分限帳を作成して大広間に掲げ、籠城に至るまでの家臣たちの動向や功名などを張り出し、当日は家老から使番までが裃を着て上使一行を迎えて城内を案内したのち、一糸乱れず粛然と退去していった。
  その振る舞いの見事さに、上使たちはおもわず感嘆の声を漏らした。
  「福嶋の城渡し」として後世の範となり、「忠臣蔵」で名高い元禄の赤穂城明け渡しでは、城代家老の大石内蔵助がこれを手本にしたという。
  諸候は先を争って、禄を離れた「太夫の士」の招聘に乗り出した。
  家臣たちはほぼ例外なく高禄をもって迎えられたが、籠城した四千数百名のなかにただ一人、応じなかった者がいた。
  筆頭家老の福嶋丹波守治重である。
  加賀前田家は三万石、紀伊中納言家は四万石を提示したが、「わが主は正則ただ一人」として耳を貸さず、京の東山に閑居して生涯を終え、花園妙心寺の塔頭[たっちゅう]海福院にて主人正則を見守るように眠っている。
  それより少し以前の福嶋正則は、大坂の陣で旧主たる豊臣家を見殺しにしたと、世人の厳しい指弾を受けていた。すでに語りあうべき加藤清正も浅野幸長も黄泉[よみ]の世界へと旅立っており、世の糾弾は一人正則の上に降りかかったのである。
  正則自身は丸腰のまま軟禁され、死に場所すら与えられなかった。死に場所を奪ったのは、再度の決戦へと向かった徳川家康と重臣たちである。
  が、秀忠による改易にさいして福嶋主従が示した潔い進退に感動した人びとは、たちまち熱心な太夫礼賛者へと変貌した。二万余の家臣たちが主に対してあれほど絶対的な忠誠を捧げた理由に、はじめて思い当たったのであった。
  わずかに家臣三十数名だけを連れ、福嶋父子が居城とてない信州川中島四万五千石に移封されたあとも、毛利家は陰となって手を差し伸べた。
  正則自身は、それから五年後の寛永元(1624)年に世を去った。
  公儀が送った検視の使者の到着を待たずに[しかばね]を火葬した[とが]により、福嶋家はついに家禄召し上げとなった。荼毘[だび]所が朽ち果てたのち、だれが建てたか、一体の愛染明王の石仏が置かれた。
  里人は「太夫ぼとけ」と呼んで、永く香華[こうげ]をたむけた。
  養子であった長男正友、嫡男となった次男忠勝(正勝)と相次ぐ子らの早世を受けて福嶋家の家督相続人となった正則の三男市之丞政利は、信州井高野の領地を預かる三千石の旗本となり、江戸は愛宕下の旧福嶋屋敷の近くに居住することになった。
  政利の子正忠は、幼い子らを[のこ]して早くに世を去った。
  残された妻は武家を捨てる決心をし、兄弟のうちの兄だけを連れて旧領である安芸[あき]蒲刈[かまがり]に移り住み、家臣の嘆願を受け入れた市ノ丞だけが毛利家に引き取られた。
  旧臣たちが市ノ丞の資質を見抜き、そのまま武士として育てることを強く進言したのだった。
「そのようなことが……」
  時の老中が、おもわず[うな]った。
  阿部が十代で城に上がったころ、福嶋正則は芸備二州にわたる堂々たる太守であり、遠くから存在の大きさに威圧されていた。武勇で鳴らしたお方だったが、そのくせどこか人懐っこさを漂わせておられ、愛嬌のある笑顔に好感を抱く者は多かった。
  戦国の世を生き抜いたお人は、こんなにも大きく感じられるものか。憧憬のまなざしで眺めている自分がいた。
「その正則公の[]孫どのが、ここで毛利どののお世話になっておられたとは、驚きでござる。いや、まこと心温まるお話でござる。関ヶ原で東軍を勝利に導いた一番の功績から申しても、わが徳川家は正則公にただならぬ恩義があるはずでござる。毛利どの、市之丞とやら  と言葉を交わしても構いませぬかな」
  藩主みずからが市之丞を手招きし、阿部忠秋の御前に進むよう指示した。
  市之丞にとって阿部忠秋は、はじめて会う人であった。
  相手は、豊臣家を倒し、おなじ血でつながるわが福嶋家を改易した徳川幕府の、執政中の執政だった。
  しかし、頭を上げよと言われた市之丞は、[おく]することなく阿部の視線をまっすぐに[とら]えると、肩の力を抜いて、ふうっと微笑んだ。
  名にしおう老中を前にして、いささかも動じる気配がない。
「どうじゃな、市之丞。こちらにおられる毛利どののお[ゆる]しがいただければ、これから先はこの豊後守が、そなたの父代わりとなろうぞ」
  幕府中枢にいる阿部忠秋が断言した。
「おおうっ」
  秀就から驚愕の声が洩れた。
「これは困った」
  目の前のお人が、いかなるときも公平の視点を忘れない、稀有[けう]な執政であることは少年の耳にも届いていた。いまもって福嶋の功績を素直に[たた]えてくれるその人の申し出を拒む理由は、なかった。
「ありがたき仰せ……」
  市之烝はしっかりと老中を見つめて、深く低頭した。

  幼いころ市之丞は、福島正則の後室[こうしつ]だった昌泉院殿に深く愛された。
  昌泉院は越後長峰藩六万四千石の藩主、牧野忠成の姉であった。
  市之丞が九歳のときにその昌泉院も没し、相次いで父正忠までが死去した。
  兄は母とともに福嶋家旧領の安芸に去り、自分だけが江戸にいて毛利家に[かくま]われた。なおも武士として生きていいのだろうか、思い悩む日々がつづいていた。
  市之丞は毛利家から、やがて阿部家に引き取られた。
  そこにはたくさんの子どもたちが養われていた。市之丞は特別扱いをよしとせず、多くは捨て子だったかれらとも馴染んだ。
  ところが、まもなく元服を迎えようという時期になって、旧家臣の血を引く丹蔵が、母の手紙をたずさえて阿部の屋敷へとやって来た。
  戦国の世に勇名をはせた曽祖父が、最後にはそっと弓を袋にしまったように、武の時代はとうに終わっていた。
  改易された大名家が、それからの世を生きるために、多くが酒造の蔵元となって糊口[ここう]をしのいだように、兄正右衛門は旧家臣たちの労苦によって安芸三原に拠点をもつ蔵元、福嶋屋の当主に迎えられていた。
  一方で丹蔵らは江戸に乗り込み、福嶋屋の出店となる江戸店を立ち上げた。
  いずれも旧臣につながる縁者たちが、旧恩に報いんと奮闘した血と汗の結晶だった。
  ただ、徳川のお膝元である江戸において、福嶋姓を名乗るのは[はばか]られた。福嶋姓には、いつになっても徳川家が最も嫌う「豊臣恩顧[おんこ]」の響きがつきまとっていたからだ。
  本来厳しく指弾[しだん]されるべきは、豊臣家の重臣でありながら、下剋上さながらに主家を根絶やしにした徳川家自身なのである。
  いわば家康こそが、天下の謀反[むほん]人であった。
  謀反人はなにより、謀反人を恐れる。
  稀代の逆賊だったはずの男はいまや神となって「権現さま」と[あが]められ、徳川政権樹立の最大の功労者となった福嶋正則は、いつまでも徳川家の不都合な事実を思い起こさせる忌まわしい存在へと変わった。
  大股で江戸の城下を闊歩し、わが世の春を謳う徳川の旗本たちはいまや、おなじ武士である各大名家の家臣を又者[またもの][さげす]むようになった。ひと昔前なら、かれらこそ豊臣家にひざまずく徳川家の臣、すなわち陪臣であり、まさしく又者だったのである。
  こうした武家社会のありようをつぶさに見てきた母は市右衛門に宛て、慈しみにあふれる書状のなかで、江戸に向かった旧臣たちの気持ちに応えるよう書いてきていた。
  そして市右衛門は、かれらの情けと労苦を知り、思い悩んだ末にあらためて母や兄のように町人として生きるべく心を決した。
  日ごろ泰然として揺れることのない阿部忠秋が、めずらしく逡巡[しゅんじゅん]した。
  あきらめがたい素振りを示したが、
「よかろう」
  最後には許しを与えた。
  市之丞は、やさしく接してくれた阿部夫人をはじめ、家老、用人をはじめとする家臣、若党、女中、屋敷の下僕、ともに育った子どもたちに至るまで、礼を尽くして別離のあいさつをし、屋敷を辞した。
  一歩門を出たところで、かれは福嶋姓を封印した。

  明けて十五歳の正月だった。
  市之烝は商家のしきたりにしたがって、市右衛門と名をあらためた。
  灘屋にはいつのまにか、各大名家や大身旗本家などの用人や留守居役が、こぞって暖簾をくぐるようになっていた。かれらは詳しい事情を知らされていなかったが、灘屋の一統はあらためて老中の力を思い知らされた。
  それから、三年。
  丹蔵の市右衛門に接する態度には容赦がなかった。主家の御曹司を飾りものにすることなく、昼夜休む間もなく鍛えあげた。商人としてではなく、なにより男を鍛えようとしていた。
  市右衛門もまた、みごとにこれに応えた。
  もとより、武家であった者が商人に成りきるのは並大抵なことではない。
  武家はもともと口数が少ない。大声を張り上げることも、大口を開けて笑うことも戒められている。こうした長い成長の過程で培われてきたものは、容易に消し去れるものではなかった。
  ただ市右衛門には天性の、静かで穏やかな微笑があった。
  しかもかれが暮らしてきた毛利や阿部の家は、いずれも主人みずから家中の隅々にまで気を配り、家臣や奉公人の一人ひとりを大事にする心ある家風を持っていた。市右衛門の記憶には、それらがしっかりと刻まれていた。
  だから、灘屋を切り盛りする丹蔵以下の者たちにも、荷受け差配の仲士や船頭の面々にも、さらには賄いや細々とした雑用を担う女衆にも、市右衛門は穏やかなまなざしを絶やさなかった。
  言葉には出さぬまでも、灘屋の面々にはいずれ当主に匹敵する立場へと上っていく市右衛門の温かみが、胸の奥深くまでじゅうぶんに沁み渡っていたのである。

  十八歳になった正月元日の早朝だった。
  三間つづきの座敷の仕切りが取り払われ、灘屋に大広間が出現した。
  清四郎に手伝われ、市右衛門は暮れに届いたばかりの羽織袴で正装し、急ごしら[]えの大広間へと導かれた。
  晴れやかな正月祝いであるにしても、いつにない空気が張りつめていた。
  そうつぶやいてみても、清四郎から答えはなかった。
  大広間には番頭に手代、女衆[おんなし]や丁稚にいたるまで、着飾った灘屋の面々が勢ぞろいをし、目を輝かせて待っていた。
  正面から下がって最前列に着座し、深々と低頭したのは、灘屋の当主と筆頭番頭を兼ねていた丹蔵その人であった。
  一統が見守るなか、丹蔵が立ち上がり、はじめて市右衛門を大広間の上座へと[いざな]い、元の席にもどるや、
「おめでとうございます」
  丹蔵が祝いの言葉を発した。即座に、一統がこれに倣った。
「新年、明けまして、おめでとうごいます」
  丹蔵が頭を上げた。
「私どもがいま、おめでたいと申しあげましたのは、正月元旦ゆえのことだけではございませぬ。一同、この日をどれだけの思いで待ちわびておりましたことか。お察しくださりませ。若さまをお迎え申してから、すでに三年と少々……今日までの私どもの無礼の数々、どうかお赦しくださりませ」
  丹蔵はここに、当主の座の譲り渡しをきっぱりと宣言したのだった。
「私どもも、お赦しください」
  奉公人たちが丹蔵に準じて、次つぎと頭を下げていく。
  後列にいた荷受け差配のかしら、米之助が鉢巻きを取って平伏すると、
「若、ご無礼いたしやした。あっしどもも、お赦しくだせえ」
  灘屋の印半纏[しるしばんてん]を着た屈強な仲士たちが、一斉に頭を下げた。
  そうするうちに丹蔵の背後で、一人、また一人とすすり泣きが洩れた。
  女中頭のお米は前掛けに顔ごと埋め尽くして、背中を震わせていた。
  嗚咽[おえつ]がみるみる広間を満たし、やがてそれは歓喜の叫びへと変わっていった。
  隣り合う者たちが、互いの肩を叩いて喜びを分かちあう。
「おめでとうございます」
「よかったなあ」
  だれかれとなく両隣に声を掛け合い、儀礼ではない本心からの新年祝賀が交わされた。
  その朝を境に、市右衛門は灘屋の当主となった。

  市右衛門は静かに、阿部忠秋からの書状を閉じた。
  若党の手で灘屋にもたらされた文面には、市井[しせい]に去った市右衛門に対する、父代わりとしての愛情が[にじ]み出ていた。
  酒問屋の株仲間に関する御用部屋でのいきさつが、手短かに綴られていた。
  [ふみ]の終わりには、この一件で灘屋から格別の相談もなかったことに触れ、もう少し足繁く訪ね来るようにと念が押されていた。
  はじめて出会ったあの日から、十年以上の歳月が流れていた。