わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第十九回
老中からの使者

  道端で、かさこそと音がした。
  ここしばらくは、雨もない。
  からからに乾いて、くるくる丸まっていた落ち葉が、つよい風に押し出されたように下り酒問屋灘屋の門口へと運ばれてきた。
  何事とてない小康[しょうこう]の一日。
  枯れ葉とともに、灘屋に意外な使いがもたらされた。
  顔見知りの若党は目立たぬように、家紋のないごくありきたりの服装をしていた。
  玄関に立って取次を頼むと、すぐに奥の座敷へと通された。まもなく現れた丹蔵に、若党は状箱のなかから主の書状を差し出した。
  丁寧に押しいただいて、筆頭番頭はすっと市右衛門の居間へと向かった。
  裏に「秋」の一字があった。
  書状は老中の阿部豊後守忠秋から、灘屋当主の市右衛門に宛てたものだった。
「御前……」
  市右衛門は懐かしい人を思い浮かべた。
  二度三度と読み直して二人は、座敷で茶を喫していた阿部家の使いをねぎらった。丹蔵は地下蔵から角樽[つのだる]を取り出させ、手代の清四郎に持たせて若党を屋敷まで送らせた。
  そのあと居間の縁側で、市右衛門と丹蔵が庭を向いて横に並んだ。
  丹蔵といるのは、らくだった。
  話したければ話し、黙っていたければ、それで済んだ。
  阿部豊後守忠秋と市右衛門との出会いは、十年以上も前にさかのぼる。
  二人はともに、遠い日に思いを[]せていた。

  阿部忠秋は幕臣の最高峰の地位にあり、徳川の安泰を守り抜く使命があった。
  大坂夏の陣で決着がついたいま、しかし徳川家だけに過度に都合のよい国づくりは避けるべきとの考えがあった。
  そのため阿部は、表向きはともかく、外様の大大名たちとの厚誼[こうぎ]もたいせつにしていた。
  その日阿部は、外桜田の毛利屋敷を訪問した。
  たとえ加賀藩前田家のような大藩であっても、老中には藩主を「そのほう」と呼びかけるほどの威勢がある。
  ただ、ふだんの阿部は、権力を振りかざす男ではない。
  書院に通された老中は、藩主が上座を勧めたにもかかわらず、
「城中でもなければ、こちらで結構でござる」
  さっさと一段下がったところに座ってしまった。
「では、私もこちらに」
  藩主毛利秀就[ひでなり]も阿部忠秋と向かい合うように座り、上座は空席のままとなった。
  平生親しく厚誼を交わしていても、幕閣に座る徳川の重臣に、外様大名が心を赦すことはない。しかし目の前にいる阿部忠秋は、毛利から見ても器の違いが明らかだった。目先のことにとらわれず、俯瞰[ふかん]でものが見える男であった。
  徳川将軍家がなぜいま天下に号令できる位置にいるか。いかなる経緯のもとに、今日の平穏がもたらされたか。そしてこれからを、どう建設していけばよいのか。
  そのことに日々、心を砕いていた。
  阿部忠秋は、自身の手で「関原[せきがはら]日記」なる著書を残している。
  毛利秀就との話も、しぜん、そこに向かう。
  戦の一部始終を知る阿部に、秀就は率直に語る。
「なんと言いましても、福嶋左衛門太夫どのがおられなんだら、関ヶ原のあと毛利はそのまま消滅していたことでしょう。私などはおそらく、ここにこうして座っていることもかないますまい」

  慶長五(1600)年九月十五日五つ半(午前八時)、福嶋正則隊の六千人は関ヶ原において、東軍の先鋒としていままさに天下分け目の合戦に挑もうとしていた。
  目の前には宇喜多勢ら一万七千人がいた。
  午前の戦いは福嶋隊一隊が戦ったようなものであった。これにつづいたのが加藤嘉明の三千であり、池田輝政、黒田長政らであった。
  命がけで戦ったのは、いずれも豊臣秀吉子飼いの武将たちであった。
  分けても福嶋正則と加藤清正は秀吉の縁戚として、天下に武勇をとどろかせた猛将である。役人としては優秀でも戦そのものを知らず命を張ることもなく、ただ策を弄するだけの石田三成をともに嫌悪していたから、石田蜂起の知らせに徳川家康を総大将とする東軍についていた。
  西軍の大将が豊臣秀頼公だったなら、東西の勢力図は大きく変わったことだろう。
  世は依然として、豊臣家のものであった。
  侍医として家康のそば近くにいた板坂卜斎でさえ、
「このときまでは内府公(家康)を主とは大名衆も存ぜられず、ただ天下の御家老として敬っていたのである。天下の主は(豊臣)秀頼公と心得ていたのが、大名衆ばかりでなく諸人下々にいたるまでの常識であった」
と語っている。
  参戦する武将たちは全員が豊臣の家臣であり、徳川家康はあくまで豊臣家の筆頭家老であったから、豊臣家における桁外れの内紛との認識が一般的であった。子飼いの武将たちも当然、そうした認識のもとに立っていた。
  しかし家康は、お家の内紛を徹底的に利用した。
  なおかつそれを、最小限の犠牲で成し遂げた。
  なんのことはない、関ヶ原の合戦において徳川家譜代の大名や旗本は、白兵戦[はくへいせん]にまでは参加していないのである。
  のちに徳川家康の後継となる秀忠にいたっては、関ヶ原へと向かう途中で信濃の真田昌幸勢にさんざん手を焼かされ、あげく四万の兵を率いたまま天下分け目の合戦に遅参し、ために東軍は七万四千の軍勢で西軍八万二千余と戦う破目[はめ]に陥った。
  家康の子でもなければ、まさに切腹ものの失態であった。
  よって一時は、徳川家後継の地位を棚上げされてしまった。
  一軍の将ならば、そこで素直に過ちを肝に銘じるべきであったろう。が、器の小ささがかれをそうさせなかった。
  その後再燃した徳川家の後継選びで自分を[]さなかった本多正純と、関ヶ原で一番の功名をあげた福嶋正則がうとましいものとして、秀忠の胸のなかに深く仕舞い込まれた。
  戦後、福嶋正則はその功績によって、家康から安芸・備後二州四十九万八千二百石を与えられた。
  一方で正則は、敗将となった毛利や島津など、西軍についた由緒ある名家の滅亡を心底から惜しんだ。
  西軍の総大将に担がれた毛利輝元は、大坂城に構えて、関ヶ原には参戦していない。
  参戦したのは輝元の養子で後継でもある毛利秀元率いる一万五千のほか、最後まで西軍に与することに反対した吉川広家の三千、安国寺恵瓊の千八百の兵などであるが、これとても様子見を貫いて、ついに戦に加わることはなかった。
  しかし毛利輝元は、決着を見たあとも依然として、大坂城に陣取る構えを見せていた。もとより家康がそんな輝元を赦すわけもなく、封土すべてを没収するつもりであった。功績抜群の福嶋正則は、ぜひにも毛利の家名を残すよう、みずからの功に代えてもと家康に談判した。
  返す刀で、なおも大坂城に居残る毛利に、開城を説いた。
  一戦に加わらなかった毛利の本隊は、いまも負け戦さを認めようとしない。ましてや毛利は徳川と同じ豊臣家の大老であった。いわば同格の徳川に臣従[しんじゅう]することは、屈辱以外の何ものでもない。
  家臣たちは[かたく]なに抵抗した。
  が、それでも、自分の功を犠牲にしてまで無心で毛利家のために骨を折る福嶋正則の前に、ようよう折れた。
  まもなく大坂城は、無血開城となった。
  毛利家は安芸、備後、周防、長門、石見、隠岐の七ヶ国と伯耆の三郡、備中半国にわたる百二十万五千石から大幅に家禄を減らし、防長二州三十六万九千石となったが、家名を失うことは免れた。
  その後もなお毛利家中には、徳川に仕えることを恥辱とする家臣が蔓延[まんえん]していたが、時勢を知る一族の吉川広家は恩人たる福嶋正則の前に手をついて、涙まじりに謝辞を述べた。
  輝元は隠居して、幼少の秀就にあとを継がせた。