わい
わいがや倶楽部

たぶん、サイトで初めての、連載時代小説。

第十一回
目覚め

  宵のうちあれほど猛々[たけだけ]しかった野犬の唸りが、町から消えていた。
  新河岸川のゆるやかな流れのほかは、物音一つ聴こえない。
  これで来年も、この屋敷のこの布団の上で眠れそうだと、河内屋半四郎は喜びを[]みしめたのかもしれない。床に入ったときの姿勢のまま、軽い寝息をたてていた。
  久方ぶりの、安堵[あんど]しきった眠りだった。
  枕もとに、男が忍び寄った。
  そっと包むように河内屋の口がふさがれた。
  力づくではないのに、それだけで身動きが取れなくなった。
「しっ、声をたてるな。騒がないと約束してくれれば、手荒なことはしない。大事なことを伝えたら、すぐに消える。いいか」
  苦しそうに喘ぎながらも最初はあらがったが、盗られるものもなく、見たところ夜盗でもなさそうだと思ったらしい。
「う、うん、うん」
  とうなずいて、脱力した。
  約束は守ってもらうと念押しして、男も力をゆるめた。
「よく聴くんだ」
  闇のなかの鋭い目が、こちらの目をまっすぐに突き刺してくる。
「今夜おまえさんに近づいてきた平岩屋に、だまされてはいけない。奴は河内屋の身代と屋号を奪い取ろうとしている男だ。下り酒の暖簾がほしいから、ずっと、おまえさんだけを付け狙ってきたんだ。言っておくが、京から買い付けた酒は河内屋にはまわらない。おまえさんの最後の金を[]き出させて、[とど]めを刺す。そのうえで、じつはこれこれの貸しがあると、大坂の河内屋本家に乗り込む手はずになっている」
「そんな、まさかそんな……」
「しっ」
  布団を[かぶ]せ、目を覚ませ、と男は低く[さと]した。
  「違う! あれは、ちゃんと筋の通った話だった」
「なら[]くが、はじめて出会った男が、なぜそこまでおまえさんの事情を心得ている。大層な[つい]えのかかる仕事に、なぜ、日々の仕入れの金にも窮しているおまえさんを頼らなきゃならない。考えてもみろ、下り酒問屋はほかにいくらもあるはずだ」
「…………」
  河内屋が押し黙った。
「奴らはしっかりと河内屋の内証を調べあげた上で、的をしぼって声をかけた。それをおかしいと思わないのか」
  あきらかに動揺しはじめている。
  一方で、必死に男の言い分を振り払おうともしていた。
「そんなはずはない。なぜと言うなら……」
  一瞬ためらったあと、河内屋はたまらず口にした。
「これは、南のお奉行さまも付いていなさることだ」
「そうだ、あんたの言うとおりだ。奉行所と平岩屋はつながっているからな。事情のわからない本家は、奉行所の書付けなんかをちらちらされれば、すぐさま江戸と縁を切り、店を手放すだろう。平岩屋は難なく下り酒問屋を手に入れて、奉行所ともども思惑どおりに下り酒と地廻り酒の両方を束ねて株仲間をつくる寸法だ」
  泥のように眠ったあとで、河内屋の酔いは醒めている。
「しかし、そこにあんたはいない」
  侵入者は、容赦なく攻めたてる。
  言われるほどに、なにもかもがわからなくなる。
  河内屋とて、絵に描いたような、うますぎる話であるのは感じていた。
  が、それは、いままでがわるすぎたことの裏返しだと言い聞かせていた。ようよう流れが変わって、やっと巡ってきた幸運だと、信じた。
  どうせあとには退[]けぬ身だった。往くも地獄、退くも地獄なら、ここは都合のよいほうに賭けてみるしかなかった。
「も、もし、そうなったら……そのときは、お[かみ]に願い出てやる」
「どこまで甘い男だ。奉行所に奉行所を訴え出るつもりか。……おまえさんも知っていよう。町人同士の金銭の争いは、双方の勝手次第だ。結局は当人同士でよく話し合え、それが奉行所のいつもの答だ。それに」
「それに?」
「奉行所は平岩屋の肩は持っても、河内屋の肩を持つ理由はどこにもない」
  河内屋から、最初の勢いは消えている。
  が、なおも拒んだ。
「やるしかないんだよ。やるんだ。一か八か、わたしはやってみる。もう、やるしかないんだよう」
  幼子のように、駄々[だだ]をこねた。
「言うが、奉行所はもう、結構な金子[きんす]を平岩屋からせしめている。役人でも、金になる間は金づるを手放すことはしない。が、一文無しのおまえさんが奉行所をほじくれば、まちがいなくあんたは、その日から伝馬町[てんまちょう]送りになる」
  河内屋の細い目が、いっぱいに見開かれた。
「わたしが、このわたしが奉行所の囚われに……」
  男が言ったことを反芻[はんすう]した。
  河内屋にしても、昔から奉行所が弱い者の味方だと思ったことはない。どっちかの肩を持つとすれば、この男が言うように、まちがいなく平岩屋のほうだろう。
「もう一度言っておく。あんたは自分で自分の[しかばね]を埋める穴を掘っているんだ。いいか、目を覚ますんだ」
「お、教えてくれ。いったいどうすればいいんだ」
「わたしの言うことを信じてくれるなら、まだ勝ち目はある。場合によっては立ち直れるだろう。わたしは最後まで、あんたと河内屋の暖簾を守り切ってやるよ」
  商人に暖簾という言葉は重い。河内屋は縋るように侵入者を見上げた。
「言われたとおり、そのまま京へ上ればいい。知らん顔をして、平岩屋の指示どおりに動くのだ。心配はいらない、いつも近くにわたしが付いている。船のなかでも、京でも、おなじだ。勝負は江戸にもどってからになる。江戸湾に荷が届いてからだ」
「あなたは、どなたさまで」
「心ある問屋仲間から頼まれた者だ。名は、次郎とでもしておこう」
  言うなり仲也は、障子の蔭の、闇へと消えた。