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天草通信

天草より

当サイトを運営しているフレックスジャパンの兄弟会社、「天草フレックス」のある天草・倉岳町の元町長から、お便りをいただきました

稲津俊徳さんは倉岳町長として、天草市に合併されるまでの5期19年もの長きにわたって尽力なされた方です。


海と山と島々とが織りなす美しい風景だけでなく、ここには戦国時代の地方武家の暮らしぶりをしのばせる歴史遺産もあります。
倉岳町を訪ねてみませんか。

稲津俊徳さん

熊本県庁において、誘致企業として天草に進出した天草フレックス(当時は高原シャツ)との進出協定調印が行われたのは、昭和59年(1984)のことでした。その、倉岳町とは、どんなところでしょうか。ご紹介します。

私たちの倉岳町は、熊本県天草市上島の南部に位置し、背には天草最高峰の倉岳山、そして前方には不知火海に浮かぶ島々を眺め、風光明媚で、自然環境に恵まれたところです。
北原白秋、西條八十と並ぶ三大童謡作詞者の一人、野口雨情はこの地の棚底に逗留したとき、小学校の校歌を作詞しました。
その一節に「平和の光さすところ 緑も深き倉ヶ岳」とあり、その風景について「後ろ倉岳 前龍ヶ岳 中の小島は浮き沈み」と詠んでいます。

また、倉岳町内から発見された石鏃や石斧、町内に散在する古墳などの調査の結果、本町には古くから人が住み、畑作と狩猟を中心に、ときには海洋にも進出して天草上島中央部の文化圏を形成していたものと推定されています。

中世には、天草五人衆の栖本氏や上津浦氏の支配を受け、両者の間で倉岳町棚底の地と棚底城とをめぐって争奪の戦いが繰り返されていましたが、相良氏(八代市)の裁定により、上津浦氏が治めることになります。

戦国の世の戦いにおいては、本格的に鉄砲が使用され戦術と戦法の大革命が起きたとされる天正3年(1575)の長篠の合戦より15年も前に、棚底の地の奪還をめぐって長崎の大村純忠の軍勢、松浦隆信が鉄砲隊30人をここに送り、実際に鉄砲が撃ち放たれて います。
九州本土から援軍を得てまでして戦うには、軍費や謝礼だけでも大変なものであったと想像されますが、棚底には食料生産に適した扇状地が開けており、その食糧庫を奪い取ること、さらには天草、八代海における制海権の確保をめざしていたものと思われます。

その棚底城の近くには、城主の菩提寺であったと思われる「大権寺跡」があり、五輪の塔のほか、多くの石塔群が存在します。それらの石塔には南北朝時代の年号が刻まれており、印刻された年号では天草最古のものであることが確認されています。
棚底城跡は、平成22年に国の指定史跡として認定されました。

棚底城跡
平成14年度より調査を開始。城跡からは輸入貿易陶磁器などの遺物が出土し、城内で茶の湯が行われていたことを示す石製風炉や、囲碁の碁石などが発見された。

以降、天草の集落は、小西行長、加藤清正、唐津藩寺沢氏の所領となり、寛永14年(1637)の天草・島原の乱後は幕府の天領となります。やがて寛永18年に天草代官となった鈴木重成によって行政区画編成がなされ、倉岳町の前身となる旧浦村、棚底村、宮田村となりました。

幕末から明治にかけては、肥後藩、富岡県、天草県、長崎府、八代県、白川県とめまぐるしく移管し、明治9年(1876)に熊本県となりました。
さらに時代は下り、昭和30年(1955)7月1日の昭和の大合併により、浦、棚底、宮田の3村を合併し、倉岳村を創設。5年後には町制を施行して、倉岳町となります。

しかし、急激な少子高齢化や人口の減少、国の三位一体の改革など、自治体を取り巻く社会環境は大きく変わり、51年間存続した倉岳町も平成の大合併により、平成28年(2016)3月27日、10万市民の夢と希望を乗せて、新しい「天草市」として船出をい たしました。

ところが、悲しいことに天草、上天草3町は、昭和47年(1972)7月6日に歴史的な大水害に見舞われます。
梅雨前線の活動が数日続き、6日は午前8時ごろから11時ごろまでの間に400ミリから500ミリもの未曽有の集中豪雨が発生。
3町で124人、倉岳町だけでも29人の尊い命が犠牲になり、家屋は押しつぶされ、田畑は瓦礫の山となり、壊滅的な打撃を受けてしまいました。

昭和47年、天草を襲った大水害

そんな折です。町民一丸となって精力的な復旧・復興を果たしたものの、まだまだ地域興しに取り組んでいるさなかの昭和59年(1984)のことでした。

長野県更埴市ワイシャツメーカーが企業進出を希望をしておられると聞きました。しかも同社は、200人を超える雇用を予定されていました。
それが叶えば、災害後の雇用の面でも大きな活路となり、町の活性化と浮揚にもつながる、まさに希望の光明となりました。

同じ年の7月18日に、県庁で同社の倉岳町進出調印がなされ、9月には従業員を募集。
10月に工場の起工式を行い、翌年2月1日に開所と同時に入社式を行い、19日に晴れて落成式が行われました。
調印から3年後となる昭和62年(1987)には第2期工事が開始され、ここに工場は240名体制を確立するに至りました。
その後は、世界一のシャツメーカーとなるべく、国内・海外に工場を新設され、順調に事業を拡大しておられます。今日では天草における唯一の工場として、さらに技術革新を進められ、天草経済の浮揚のための努力を続けられており、ただただ感謝に堪えません。

先人の尊い努力ととともに、今日があります。
過疎化、高齢化とめまぐるしく移り変わる現代社会においても、我々に託された文化と伝統を大切に受け継ぎつつ、産業、教育、環境整備などの発展を願い、豊かさを実感できる地域社会を実現できたらと願っております。

天草市 倉岳町 稲津 俊徳