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わいがや倶楽部

〜シャツの故郷から〜
熊本・天草工場訪問記

かつてヨーロッパの人々が最初に出会った日本。黄金の国ジパングの玄関口をもっと知りたい。

「天草紀行」天草フレックス株式会社  熊本・天草工場訪問記

人の温もりが、シャツをつくっている。

取材:瀧 春樹


天草は、九州の西の海に浮かぶ、島々である。
非礼を承知で言わせてもらえば、遠く離れた西のはずれに位置する、離島にすぎない。しかしそこは、本州よりもずっと早く、西洋の文化や学問とつながった稀有な土地でもあった。視点を変えて、ヨーロッパのほうから見ればよくわかる。江戸はまだまだ遠く、天草こそが黄金のジパングに入るいちばん近い玄関でもあったのだから。そしてそこには、息をのむほどにうつくしい光景と、人びとが失いつつある大切なものがたくさんあった。
所用があった関係で福岡空港から車を走らせて、3時間近くが経とうとするころ、九州自動車道を降りて宇土半島へと向かう。やがて天門橋を渡り大矢野島を抜けると、車窓に広がる風景からまったく目が離せなくなる。そこは上島から下島へとつづく天草への入り口であり、青々と光り輝く眼下の海は大小さまざまな緑の島影を配して、まばゆいばかりであった。
天草は周囲を東シナ海、有明海、不知火海に囲まれ、およそ120もの島々からなっている。ただ、土地の人に島という感覚はあまりない。上島を1周するだけでも車で3時間ほどもかかる大きな島であるうえ、ごく短い橋を渡るだけでどこへもつながっているからだ。
近海を対馬暖流が北上するため気候は年中温暖で、それがいかにもおだやかな印象を与えているが、わずかな耕地は石混じりの土でおおわれ、決して肥沃とは言えない。おまけに夏は島特有の干ばつが起こりやすく、台風が通いなれた道でもある。それでもこの地のうつくしさは、別格であろう。
海岸から分かれて、車は天草フレックスのある倉岳町へと向かう。
元来、島にさしたる産業はなく、人びとは永く漁業を主体として生きてきた。漁港が多く、近くには名高い鯛の釣り場もある。が、高度成長とともに人口の流出が激しくなり、当時の町長は島外からの企業誘致をつよく望んでいた。このとき、天草に着目したのが現フレックスジャパンの矢島久和会長で、社員から親しみを込めてキャップと呼ばれる、その人だった。この地に迎えられれば、他の産業が少ないがゆえに、シャツづくりに永く修練していただける、そう考えられたのだろう。
1984年(昭和60)7月、総勢120名ほどの陣容で、天草高原シャツ(現・天草フレックス)は産声をあげた。長野にある本社工場から、過去になんども海外の工場を指導してきた山口道子さんをはじめとする、優れた熟練指導者たち12,3名が派遣された。
ミシンなどの機械の使い方を手ほどきしながら、縫製に向いている人、裁断が合っている人、管理が得意な人と、それぞれの個性を生かした布陣が敷かれていった。以来、早くも30年の歳月を数える。
厳選された100番双糸の生地を用い、立体裁断にて身体のラインと動きとにみごとに追従するシャツがつくられている。競い合って技術を磨きつづけるなかで、とりわけ高度な仕事を要求されるオーダーシャツの領域で、高い評価を得られるようにもなった。なかでも象徴的なのは、この天草工場に注目したのが国内企業ではなく、アメリカの流通企業だったことだ。よほどに技術が確かだったのだろう。いまではこの工場から、じつに世界40数か国へと製品が出荷されていると聞く。

天草フレックス

天草フレックス

天草に入って、驚いたことがいくつもある。お話しを伺い、工場内を拝見したあと、ぐるりと周囲を一周してみたいと、7代目にあたる山並工場長に申し入れたときだ。先に出た私は、工場のすぐ前を流れる浦川の岸辺に立った。ここはもう河口に近い。それでなくともきれいな水が、一段と澄んでいる。ふと見ると、川岸から網を放り投げる人がいた。さっと水しぶきが上がり、引き上げられた網のなかで、大きな魚影が跳ねた。見ると、2kg以上はありそうな巨大なボラが目の前にいた。翌朝には、ごくふつうの民家の庭先と思える空き地に、幼鳥が3羽、戯れていた。聞くと、キジだという。人里の真ん中に、キジがいる。親鳥はここで平気でヒナを産み、育てている。自然の奥深くに隠れていそうな生きものたちが、警戒心もなく、ごく日常の風景としてそこにあることに、あっと思わされるものがあった。

自然だけでは、なかった。
せっかくの機会だからと、工場の方々と夕食を伴にしたときのことだ。みなさんは間違いなく、現工場の高い技術レベルをつくりあげてきた中心メンバーである。しかし、いくら誘い水をかけてみても、彼女たちからはみじんも自信や自慢らしき言葉を引き出せなかった。
それどころか、何を言っても「私にはこれが足りない。まだまだと思う。もっと努力しなければ、お客様にも会社にも申しわけがない」。三人が三様、それぞれ言い方は違っても、まず自分の至らなさから口にする。それでもほぼ全員が、選抜されて海外へと出向き、多くの現地の人たちに技術指導をしてきた熟練者たちであることは間違いない。なかには数度の渡航経験を持つ人もいる。
そんな方たちが、なぜこんなにも謙虚なのだろう。まっすぐなのだろう。もっともっとご自分を誇っていいのではないか。唸りながら私は、それじゃ東京では生きていけないと返そうとして、余計な言葉をごくりと飲み込んだ。
あとでわかったことながら、こうしたことはその日の女性たちばかりではなく、他の多くの男性からも、そして天草で出会ったほとんどの人から感じ取れたものだ。
シャツは、人と機械の合作である。それでも天草を訪れてつよく感じたのは、なによりうつくしい自然に見合ったうつくしい心が、世界に誇れるシャツをつくらせているんだ、との思いだった。

現在、天草フレックスにはミャンマーからの研修生が6人いる。ミャンマーの工場でシャツづくりの素地はできているから、一人で4,5工程はこなせるよう、いまは新たな技術の習得に励んでいる。いずれ3年が経てば彼女たちは本国の工場へともどり、こんどは自分たちが指導者として自国の産業を引っ張っていこうとがんばっているのだ。

         

ミャンマーからの研修生

そんな彼女たちのもとに今年は、6年前に来日し、静岡県立大学を経て本社工場に勤務していた若いミャンマー人の男性がやってきた。女性技術者たちの通訳を果たすとともに、各部署のローテーションを管理している。いまは単身だが、もうすぐ奥さんが天草にやってくると、彼はうれしそうに笑った。信州大学に留学していた奥さんのお腹は、彼ら二人の夢を宿して、やさしくふくらんでいるという。
工場のすぐ裏には、遠く母国を離れて働く彼女たちのために用意された社宅がある。
またすぐ脇には、保育の専門家が常駐する託児所が併設されている。どちらも自然に溶けこんだ、いい佇まいの家屋だ。託児所にはやがて、天草生まれのミャンマーの子どもの元気な声が響くことだろう。なにより1分とかからぬ至近距離にあるだけで、これならば母としても安心だろうなと、迎える側の細やかな配慮を感じた。

がんばるミャンマー人のお父さん

天草生まれの可愛い男の子

翌朝、吉報が舞い込んだ。
倉岳町が天草市として合併されるまで、5期19年もの長きにわたって町長を務められた稲津俊徳さんが、急なお願いにもかかわらず、天草のことをいろいろお話してくださるというのだ。お会いしてすぐに、この方も天草の人だと感じ入った。偉ぶるところが少しもない、どこまでも温かい心づかいの方で、時間の許すかぎり各地を丁寧に案内してくださった。通りがかったお知り合いの農家では、まるで年来の知人のように、庭先でお漬物とビワ茶をいただいた。このうえなくいい時間が流れていた。

天草という地名の由来は定かではない。
鎌倉時代の文献に登場する天草五人衆の一人であり、地域の有力豪族であった天草氏から来たものか。あるいは天草氏自身が、すでにあった地名を姓としたものか。元町長に問いかけたら、よくわかっていないのですが、と断られたうえで「天の恵みがあり、草木がよく育つ。そんなことかもしれません」、すばらしい答えが返ってきた。

別れの時が来た。
滞在中ずっとお付き合いくださった天草フレックスの豊永さんは、ご自身が点のようになるまで、そして私たちの車影が山並みに消えるまで、ずっと低頭したまま見送ってくださった。毛頭、見返りなど意識のなかにない、ごくごく自然な、心奪われる振る舞いであった。 この島に、いまも厳然とあるもの。海、山、川、岸辺、島影、橋、光、風、濃い緑。
そしてなにより、人。すべてが混然となって、本来の人の暮らしにふさわしいものたちが、いとおしいほどにそこに横たわっていた。

去りがたき島――その想いが、つよく残った。

2015年9月10日訪問